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以下のテキストは、『東洋の思想と宗教』第24号、2007年3月、pp. 45-55に掲載された論文の提出原稿をHTML化したものです。 実際に掲載されたものと異なる場合があると思いますが、ご了承ください。 ちなみに印刷されたものは旧字になっていますがこのページは新字です。また、漢文中の返り点や送り仮名等も省略しました。
最澄と徳一との間で展開された所謂「三一権実論争」において、 質、量ともに論争を代表する書物としてあげられる『守護国界章』(以下『守護章』)は、 その重要さを認識されながらも、 複雑に入り組んだ論争経過☆1や引用文献の広博さ☆2などから、 未だ詳細な解明には至っていない。 長い歴史の中で切断されたり埋没したりしてしまった文脈を、 少ない手がかりから繋ぎ合わせ発掘する作業を重ねていくことでしか『守護章』の全容解明はないと筆者は考えているが、 本稿はその一重となることを目指すものである。
さて、以下に取り上げる『守護章』巻中之中・弾謗法者偽訳如是章第十二における論争では、 他の部分には見られない方法に基づいた議論のやりとりが見られる。 ここではまず、徳一がその著書『中辺義鏡』(亡佚)において、 仏教経典の冒頭によく見られる「如是我聞」という文句を万葉仮名を用いた訓読によって解釈している。 それに対して最澄は、『守護章』において徳一の解釈を逐一引用し批判しているのである。 この論争の概要については田村晃祐氏がすでに明らかにされているが☆3、 万葉仮名や訓読という方法についてはこれまで細かく検討されたことがなかったように思われる。 これを検討することでこの論争の思想的特徴などを研究するための手がかりが得られることが期待できるだけでなく、 国語学、特に訓点語学における成果を応用することで、同時代の仏教以外の文献との比較や 『守護章』の文献学的な性格などにアプローチする可能性も予想しうる。
加えて、日本古代における訓読などをめぐる問題については、国語学(訓点語学)における蓄積だけでなく、 近年、文学や歴史学の分野において、 訓読や仮名の発明における社会的背景やそれによる言語使用者の心性の変化などが 検討されるようになってきている☆4。 したがって「弾謗法者偽訳如是章」における徳一の訓読についても、単なる語学的、文献学的な関心に留まらず、 広く思想史的な問題として捉えることも可能であろう。
本稿では徳一の訓読とそれに対する最澄の反論に注目し、 『守護章』(『中辺義鏡』)の文献学的な問題、最澄の翻訳観などについて考察したい。
上代の日本語は現代日本語とは異なる音韻体系を有しており、 現在では同音になっているオキギケゲコゴシジソゾトドノヒビヘベホボミメモヨロの音を表す所謂万葉仮名に 甲乙二種類の区別があったことが知られており、 一般に上代特殊仮名遣いと呼ばれる☆5。 この仮名遣いは時代を経るごとに衰退していき、平仮名が使われる頃にはほとんど区別がなくなっていったとされる。 研究史的には、本居宣長によって研究の端緒が開かれ、 江戸時代後期の石塚龍麿(一七六四〜一八二三)が『仮名遣奧山路』において上代特殊仮名づかいの包括的な紹介をするも注目を集めることがなく、 橋本進吉(一八八二〜一九四五)による石塚の「発見」☆6と一連の研究によって ようやく学会でも認められるようになった。
ここでは『守護章』巻中之中・弾謗法者偽訳如是章第十二に見られる徳一の万葉仮名表記について検討する。 見出しにあげた「譬喩」や「教誨」などは、 便宜的に『守護章』中での最澄の項目立てをそのまま流用したものである☆7。 その後、一行目に原文、二行目に字音☆8、三行目に『伝教大師全集』頭注の読み仮名を並列し、 甲乙の区別がある字音については甲類を右傍線(き)、 乙類を左傍線(こ)で表した☆補注1。 また、問題のある文字については「★」を付し、箇条書きで簡単に問題点を指摘している。
許 | 礼 | 阿★ | 何 | 伎 | 伎 | 之 | 何 | 其 | 都★ | 之 |
こ | れ | あ | が | き | き | し | が | ご | と | し |
コ | レ | ワ | ガ | キ | キ | シ | ガ | ゴ | ト | シ |
伽 | 久 | 乃 | 其 | 都★ | 久 | 阿 | 加★ | 毛 | 都★ | 爾 | 伎 | 計 |
か | く | の | ご | と | く | あ | か | も | と | に | き | け |
カ | ク | ノ | ゴ | ト | ク | ワ | ガ | モ | ト | ニ | キ | ケ |
加 | 久 | 乃 | 其 | 都★ | 久 | 伎 | 計 | 阿 | 何 | 伎 | 伎 | 之 | 都★ | 許 | 呂 | 乎 |
か | く | の | ご | と | く | き | け | あ | が | き | き | し | と | こ | ろ | を |
カ | ク | ノ | ゴ | ト | ク | キ | ケ | ワ | ガ | キ | キ | シ | ト | コ | ロ | ヲ |
可 | 久 | 乃 | 其 | 都★ | 久 | 曽★ | 阿 | 可★ | 伎 | 伎 | 之 |
か | く | の | ご | と | く | そ | あ | か | き | き | し |
カ | ク | ノ | コ | ト | ク | ゾ | ワ | カ | キ | キ | シ |
可 | 久 | 乃 | 其 | 都★ | 之 | 曽 | 阿 | 何 | 伎 | 伎 | 之 | 都★ | 許 | 呂 | 曽★ |
か | く | の | ご | と | し | そ | あ | が | き | き | し | と | こ | ろ | そ |
カ | ク | ノ | ゴ | ト | シ | ゾ | ワ | ガ | キ | キ | シ | ト | コ | ロ | ゾ |
可 | 久 | 乃 | 其 | 都★ | 伎 | 乎 | 波★ | 阿 | 礼 | 伎 | 伎 | (之★)☆10 |
か | く | の | ご | と | き | を | は | あ | れ | き | き | (し) |
カ | ク | ノ | ゴ | ト | キ | ヲ | バ | ワ | レ | キ | キ |
上代特殊仮名遣いの歴史的変遷については、以下のようなことが知られている。
すなわち、九世紀から十世紀にかけての平安初期に、上代特殊仮名遣いが急速に失われていくことが見て取れるのである。
さて、右に見たように、徳一の上代特殊仮名遣いは概ね原則通りである。 明確な甲乙の乱れはト音(都)に留まり、それ以外は誤写の可能性が高そうなものばかりであることからも、 同時代の『新訳華厳経音義私記』の傾向と非常に近い。 徳一『中辺義鏡』の成立は、田村晃祐氏によれば「『守護章』の完成が弘仁九年と見られるので、恐らく弘仁八年あるいはそれ以前、 遅くとも弘仁九年の初期に考えるのが適当であろうと思う」☆11とのことであり、 少なくとも成立のはっきりしている『守護章』の書かれた弘仁九(八一八)年を下ることはないであろうから、 『中辺義鏡』に書かれた万葉仮名を最澄が正確に書写していることが予想される。
ここで現行『守護章』の底本について考えてみると、『伝教大師全集』に記載されている底本は以下の通りである。
先に述べたように、九世紀後半に甲乙の区別がなくなって以降、江戸時代後期の石塚龍麿に至るまで、 上代特殊仮名遣いによって正確に表記できる人はいなかったと言ってよい。 したがって、『守護章』の伝写の過程において、(すくなくともこの部分に関しては)書写者の創作、 挿入や書写上の乱れがなかったことは明らかであろう(逆に『伝教大師全集』頭注のカタカナ表記が後世の加筆であることも明らかであろう)。 これは『守護章』の文献学的な性格を考える上で重要であると思われる。
ところで、後にみるように「方言」「方音」という用語が最澄の批判にしばしば登場する点、 徳一が奥州会津にいたという点を考慮すれば、右のような時代的な変化とともに、 地域的な音韻や語彙の差についても一応の考察しておかなければならないだろう。 平安初期の成立とされる『東大寺諷誦文稿』には、如来の説法が言語の差を超えて伝わり理解されるということを述べる際、 日本における「方言」についての言及がある。
各於世界講説正法者詞无㝵解、謂大唐・新羅・日本・波斯・混崙。 天竺人集、如来一音随風俗方言令聞。仮令此当国方言、毛人方言、飛弾方言、東国方言。仮令対飛弾国人、 而飛弾国詞令聞説。如訳語・通事。☆12
当時の日本には「毛人方言」「飛弾方言」「東国方言」があり、 仏陀であれば、例えば飛騨国の人に対しても飛騨の国の言葉で説法することができるのだという。 これは深読みすれば、当時、地方で布教活動をする際の言語的なトラブルが実際にあり、「方言」を考慮した説法の方法が必要だという 南都仏教界の問題意識があったことも予想される。
また、ここに「訳語・通事」という通訳者についての言及があるが、 『続日本紀』養老六(七二二)年四月に 「征討陸奥蝦夷、大隅薩摩隼人等。将軍已下及有功蝦夷并訳語人、授勳位各有差」とあり、 『日本三代実録』元慶五(八八一)年五月に 「授陸奥蝦夷訳語外従八位下物部斯波連永野外従五位下」 とあることからもわかるように、蝦夷の場合、通訳が必要であったほど言語の差があったと思われる。 『東大寺諷誦文稿』における「訳語・通事」とは仏陀の能力を例えたものであり、 また「毛人方言」と『続日本紀』などの蝦夷語との違いは不明であるが、 少なくともここで言われている「方言」は同一国語内の音韻や語彙のヴァリエーションというような現代的な意味だけではなく、 現在の外国語に近いニュアンスを持った用語であることに注意をしておかなければならない。
さて、『東大寺諷誦文稿』が仏陀の説法に関連して「方言」の問題を論じていることから推測されるように、 徳一が陸奥国や東国で布教をする際に方言の問題に無関心であったとは考えにくい。 音韻に関して言えば、福田良輔氏による詳細な研究☆13などで、 『万葉集』の東歌などにおいて甲乙両類の音の混同事例が多く見られるなど、中央語系古代語との差が指摘され、 東国方言の音韻、語彙、文法上の特徴も明らかになってきている。 しかしながら、右に見たように徳一の訓読は原則通り、すなわち中央の音韻、語彙で訓まれたものであって、 「方言」的な要素を見出すことはできない。 今後も検討は必要であろうが☆14、 徳一が中央(奈良)で教育を受け、方言的な特徴は見られないと考えてよいのではないだろうか。
次に、最澄の批判について検討する。 田村晃祐氏がすでに分析したように、最澄の批判は、 徳一による『仏地経論』の解釈ないし援用の仕方の不適切さに対してだけでなく、 訓読(翻訳)の不適切さについても及んでいる。 最澄が後者の問題に関心があったのではないかということは、 『守護章』の章題に「弾謗法者偽訳如是章」とあることからも推測される。 本稿では後者の問題に注目して分析したい。
次の表は、徳一の訓読(および現代風の訓読)とそれに対する最澄の批判の「訳」に関する部分、 そして最澄が批判の根拠としている翻訳の実例をまとめたものである。
徳一の訓読 | 最澄の批判 | 最澄の挙げる実例 |
---|---|---|
許礼阿何伎伎之何其都之(是れ我が聞きしが如し) | 今此譬喩転、為顕句頭義。(中略)「如是」之言、置句頭義。 | 新訳経首、除却上字、直道「如是」。 |
伽久乃其都久阿加毛都爾伎計(是の如く我がもとに聞け) /加久乃其都久伎計阿何伎伎之都許呂乎(是の如く聞け、我が聞きしところを) | 其論意趣、引句腹「如是」、成経首「如是」。 | 旧訳経首、或置「聞如是」、或「我聞如是」。 |
可久乃其都久曽阿可伎伎之(是の如くぞ我が聞きし) | 其論意者、亦復為成句頭「如是」、重引句頭語例。 | 新訳経首、除上句意、蓋依斯転。 |
可久乃其都之曽阿何伎伎之都許呂曽(是の如しぞ我が聞きしところぞ) | 其論正義、引仮説語例、釈成経首言。此許可語例、当句腹「如是」。 | 旧訳経首、阿難曰「我聞如是一時」。 |
可久乃其都伎乎波阿礼伎伎〔之〕(是の如きをば我れ聞き〔し〕) | (義勢同上、繁更不述。) | (義勢同上、繁更不述。) |
徳一の訓読は、いずれも「如是我聞」の訓読☆15であると思われるが、 「加久乃其都久伎計阿何伎伎之都許呂乎(是の如く聞け、我が聞きし所を)」のような倒置した例があることからも、 「如是我聞」という文字の順をなるべく保つことを意識しているのではないかと推測される。 本章は徳一による一連の『法華文句』批判☆16のひとつであるうえ、 徳一が批判にあたり『法華玄賛』をベースとしていることからもわかるように、 ここで議論されている「如是我聞」は、第一義的には鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』冒頭のそれであろう。
これに対して最澄は、「句頭」「句腹」という用語を用いたり(右表ゴシック部分☆補注2)、 「我聞如是」などの異訳の例を出すなどして、徳一の訓読における「如是」の位置を批判しているものと思われる。
例えば、二番目の「伽久乃其都久阿加毛都爾伎計/加久乃其都久伎計阿何伎伎之都許呂乎」については、 徳一が『仏地経論』の「依教誨者、如有説言『汝当如是読誦経論』」☆17という文などを根拠にしつつ 「是の如く我がもとに聞け」などと「如是」を先頭にして訓読しているのに対して、 最澄は『論』が「汝当如是読誦経論」とパラフレーズしているのであるから、ここでの「如是」は句腹、 すなわち文の途中にあるべきものである、と批判している。
逆に、一番目の「許礼阿何伎伎之何其都之」については、徳一が『仏地経論』の 「依譬喩者、如有説言『如是富貴如毘沙門』」☆18という文などを根拠にしつつ 「是れ我が聞きしが如し」と訓読しているのに対して、 『仏地経論』で「如是富貴如毘沙門」と「如是」を先頭にしているのだから、 「如し」が最後に来るような徳一の訓読は「語を捨てて義を取る」☆19という過失を犯した 『仏地経論』の意図にも背く不適切な態度である、として批判しているのである。
すなわち最澄は、「如是我聞」は総句(すべて意味を包含した語句)としての翻訳である一方、 徳一がしているように別句(多義的な文の個々の意味を表す語句)の意味に基づいて翻訳する場合には、 『仏地経論』でのパラフレーズや漢訳仏典の「我聞如是」「聞如是」などの例において「如是」の位置が移動しているように、 日本語(日本方言)への訓読においても「如是」の位置が移動する場合があるはずである、と考えていたようである。 現代の翻訳においても、文脈に依存した原語のニュアンスの違いを訳し分けるということは行われるが、 最澄は経典の深層の意味が、 言語を超えて表層の言語表現(訳語)に反映される(べきである)と確信していたようにも見える☆20。
この最澄の批判と似たような議論として、慧遠『大般涅槃経義記』の例をあげることができるだろう。
又温室経初云「阿難曰、吾従仏聞如是」。故知、阿難名仏所説、以為「如是」。 但方言不同。彼温室経順此方語、故説「従仏聞於如是」。余経多順外国人語、 先挙「如是」、後彰「我聞」。☆21
このような言語の地域的な違い(方言、方語)を意識した解釈は、慧遠だけでなく広く見られるものであるが、 右の慧遠の主張は最澄の考え方とまったく逆であることに注意すべきであろう。 すなわち、慧遠の右の発言は、「如是」という言葉には一つの意味(「仏所説」を指す指示語)しかないにもかかわらず、 中国語の語順に従って『温室経』のような語順になることもあれば、外国語(梵語)の語順に従って「如是我聞」のようになることもある、 言い換えれば、言語の深層(意味)と表層(表現)とが一致しない事態を指摘しているのである。
以上の検討を踏まえると、最澄が徳一に対する批判として「未辨方音」「不辨方音」などと言っているのは、 字義通り「(梵語、漢語、日本語というような)地域ごとの言語を理解していない」という意味だけでなく、 深層の意味を訓読に反映できていない徳一に対して端的に「日本語がわかっていない」 という非難をしている可能性もある☆22。 しかもこれは単に言語的能力について述べているだけではなく、 先に見た『東大寺諷誦文稿』を踏まえれば、布教者としての能力を視野に入れての発言とも考えられるだろう。
以上、徳一の訓読と、それに対する最澄の批判を中心に、『守護章』の文献学的な性質や最澄の訓読(翻訳)観について検討してきた。 十分な知識もないまま国語学的な問題を扱っているため、不適切な点も多々あろうかと思う。諸賢のご叱正を頂ければ幸甚である。 蛇足を覚悟で付け加えるならば、このような訓読や翻訳の問題は、 まさにそれをベースにして研究をしている我々仏教学者の脚下を照らす問題ではないかと考えられる。 本稿に多くの間違いがあったとしても、そのような文脈で一定の価値が見出されるならば、望外の喜びである。
以下の補注は論文が出た後のもの。