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所収:『印度学仏教学研究』48-1(95)、1999年12月、pp.170-172
※ 本テキストと、実際の論文との間で誤差があるかもしれませんのでご注意下さい。 また、ご叱正の点、お気づきの点等がございましたら、ご連絡下されば幸甚です。
中国・日本の唯識学派、いわゆる法相宗の歴史、思想について語られる場合、 必ずと言っていいほど「三祖の定判」「三箇疏」という言葉が用いられる。 「三祖」というのは言うまでもなく慈恩大師基・淄州大師慧沼・撲揚大師智周であり、 それぞれが著した『成唯識論』の注釈書である『枢要』『了義灯』『演秘』は、 古来「三箇疏」と称され、慈恩大師の『述記』とあわせて尊ばれてきた。
しかし、井上光貞氏が「実証的な研究を進める上には、凝然の作った輪郭を一応無視し、 他の確実な資料から出発するを要するのである1」と述べられて以来、 伝統的な祖灯説を再検討する動きがみられるようになった。 そのような流れのなかで三祖に関する伝記研究2は、 基(六三二〜六八二)3、 慧沼(六四九〜七一四)4については研究が進んでいるものの、 第三祖である智周については、資料に乏しいためほとんど進んでいなかったといってよい。
従来の研究においては、凝然を除けば次に引く「撲揚講表白文」が智周伝に関する共通のソースとなっているようである。
樸陽大師、法相中宗曩祖、淄洲伝灯上足也。諱智周、俗姓徐氏、偃王後也。懐胎之夕、悲母断葷血、誕生之晨、大師感湧宗。
生年十有九受具足戒、二十有三入泗洲室。大乗入道等章疏作六十余軸、法華唯識等経論、講授八十余遍、皆窮三蔵幽微、悉尽一代之肝要。 而識相識性之智、永湛於胸中、入遍学弘道之室、而明因明之法灯、耀於眼前、伝灯化縁忽拯満度。 運命漸尽、而玄宗皇帝之御宇、開元二十一年暮夏、春秋五十六。
これによると、開元二一(七三三)年に五六才で亡くなったのであるから、生年は六七七年ごろとなる。 この説は結城令聞氏、富貴原章信氏をはじめ、多くの先学に支持されている5。 この「撲揚講表白文」の典拠は不明だが、その題名から考えても日本の中世以降における文献と考えられるから、 凝然の著作と同様、どこまで信用できるものかはわからない。 そこから近年には、吉津宜英氏が「『宋高僧伝』にも立伝されていないとか、慧沼伝に弟子として名前が列せられていないとか、 いろいろ問題になる点が多い6」と述べて注意を喚起され、 根無一力氏も「この三祖の相承がいったいいつごろから言われだしたのか分からない。また中国の高僧伝や歴史文献にも記されていない。 おそらく入唐第四伝の玄昉が智周に師事していたためにこれを正系とみた、 と考えるのが自然であろう7」と述べられているように、 三祖という概念そのものを疑問視する意見も出ている。 これらの疑問を解決せずに旧来の法相教学をインド以来の「正系」とし、研究を進めていいものだろうか。
智周に関する伝記の研究は、先学が指摘するとおり中国側に信頼し得る資料がないため、それだけで全体像を描くことがきわめて難しい。 しかし、師資相承に関する記事については、智周自身の発言を含めいくつか散見される。
例えば、『法華経』長者窮子喩における「衣裓」「机案」(大正九・一二b)の解釈において、 これらが不定性二乗の因を譬えたものであるとする説と、果を譬えたものであるとする説の両方が『法華玄賛』にあり、 後世の議論8のもととなっているのであるが、これに対して智周は次のようなコメントを述べている。
答、疏主解彼衣裓等文、云果化喩。故知、此処非疏主意、又復本師親承疏主、相伝不謬。 (『法華摂釈』巻一、卍続五三・五八b)
すなわち、「衣裓」「机案」は二乗の果を譬えたものであり、『玄賛』が二乗の因であるとする箇所は慈恩の真意ではない、 という判定を下すのであるが、その根拠として智周の「本師」と、「疏主」すなわち慈恩との師資相承が強調されているのである。 これについて唐代の複注には、
摂釈亦云、若是□□解、即合前後相承。今既前後相違、故知不是也。又溜洲親承、疏主之後、相伝不謬。 (栖復『法華経玄賛要集』巻五、卍続五三・五六六a)
とあり、智周の「本師」が慧沼(溜洲は淄州の混用か)であるとしている。
また、八世紀ごろ敦煌で活躍した曇曠が智周の『大乗入道次第』を注釈したものの序文に、
大唐開元初有樸陽大徳身号智周。我大唐三蔵曾孫弟子、慈恩大師之孫弟子、河南法師之親弟子、即是青龍大師異方同学。
内窮三蔵外達九流、為学者師宗作詞場雄伯、工手著述妙手讃揚。所撰章鈔凡十数部、即法花摂釈・唯識諠秘・因明決択皆所造也。 雖不至長安而声聞遐被、関輔諸徳咸仰高風。(曇曠『大乗入道次第開決』、大正八五・一二〇六c〜一二〇七a)
とあり、玄奘→基→慧沼→智周という相承を裏づける中国側の資料として注目される。 ただし、伝統的に言われる慧沼の「上足」としての面は目立たず、むしろ「青龍大師の異方同学」であるとされていることに注意せねばなるまい。 すなわち、青龍大師とはおそらく、当時巨大な勢力を誇っていた青龍寺道氤9のことであろうが、 『宋高僧伝』などにおける後世の知名度から考えるに、道氤と同学であると示すということは、 智周の権威を高めるために道氤の名声が利用されていると考えるのが自然ではなかろうか。 また、「樸陽大徳」と称し、「長安に至らずと雖も、声を聞くこと遐かに被り、関中・三輔の諸徳に咸く高風を仰がれた」とあることから、 長安周辺では活動しなかった風であるが、『因明略記』の寺号として「定水寺沙門」とあることから、 長安滞在期間もあったことがわかる(ただし『略記』には偽撰説あり)。 先にあげた「表白文」を参考にすれば智周は六七七〜七三三年の人であり、二三才の時に慧沼の門に投じたというが、 そのころ慧沼は義浄の訳場に参列していたのであるから、この時期に慧沼に師事するとすれば長安にいなくてはならない。
一方智周には、自らの師承に対して否定的な発言をする場合もある。 例えば『妙法蓮華経』の経題「蓮華」を解釈する際、慈恩の説とは別の解釈を出した上で、
若爾、師資豈不自為魚肉。答、依法不依人、豈以所宗曲相阿僮。(『摂釈』巻二・卍続五三・八七a〜b)
という自問自答をするのである。 ここでは師資相承よりも普遍的な「法」を重んじる態度が見られ、同時代の初期禅宗教団が血脈の証明に熱心だったことと比較しても興味深い。 「法に依りて人に依らざれ」という説は法四依の一として一般的なものであるが、 これ以外にも慈恩や慧沼の説を誤りであると断ずる箇所が散見されることから、 智周と前二師とのつながりの弱さを想像させるとともに、後世の日本唯識における客観性を重んじる論義研鑚の淵源であったとも考えられよう。
〈キーワード〉撲揚智周、法相三祖、青龍寺道氤
(東洋大学大学院)