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以下のテキストは、『佛教史学研究』第50巻第2号(2008年3月、pp. 30-52)に掲載された論文の提出原稿をHTML化したものです。 実際に掲載されたものと異なる場合があると思いますが、ご了承ください(漢文中の返り点や送り仮名等は省略してあります)。
『日本霊異記』下巻第三十八縁は、作者である景戒が自身について述べる記述があることから、これまで多くの研究が積み重ねられてきた。 ここでは、景戒が見た二つの夢が紹介され、それに対する景戒の解釈が述べられているが、 本稿では第一番目の夢とその解釈(以下、「観音の夢」とする)について考察したい。 観音の夢とは、次のようなものである(1)。
この夢については、国文学の研究者を中心に、観音悔過との関係(2)、 陰陽道との関係(3)、日本の古代信仰との関係(4)、 弥勒信仰や菩薩信仰などの仏教との関係(5)、 宗教心理的な分析(6)など、これまで多くの研究が積み重ねられてきた。
一方、この夢に対して景戒が五姓各別説(7)に基づいた解釈をしている点については、 菊池良一氏が指摘して以来注目されてはいたものの(8)、 五姓各別説とは対立的な天台教学への関心が指摘されたこと(9)以外、 議論は深められていないように思われる。 その理由の一端は、仏教学の研究者が『霊異記』などの文学作品にあまり関心を持たなかったこともあるが、 五姓各別説自体が唯識思想の他の要素と比べて関心が低かったという現状もあるだろう。
歴史学の分野では近年、考古学の発掘調査に対応する記述が『霊異記』に見出されたり(10)、 吉田一彦氏が『霊異記』に地方豪族層や民衆の姿が「いきいきと書かれている」と見なして(説話は史実とは言えないものの) 「人々の仏教信仰のあり方も、当時の実体を直接反映している」(11)と主張したりするなど、 「史料」としての価値が再評価されつつある(12)。 一方、北條勝貴氏は、『霊異記』が景戒によって物語られたものであるという点に注目し、 当時の複雑で多様なコンテクストのなかで景戒がある条件において取捨選択し物語化していったこと、 換言すれば『霊異記』に収録された説話以外のあり方も条件によっては可能性としてあり得た(「説話の可能態」)という前提で 景戒の言説を分析すべきであると主張している(13)。
本稿では、北條氏の問題意識を受け、五姓各別説をはじめとする思想史的な文脈を網羅的に確認することを目的とする。 従来あまり検討されてこなかった景戒と『霊異記』がおかれていた思想史的なコンテクストについていくつか指摘することで、 景戒の観音の夢を解釈する際の参照枠を拡大することができればと思っている。
志田諄一氏は「『霊異記』の背景には、法相宗教学の自己主張、薬師寺の自己擁護の性格がかなり強くかくされているのである」と指摘し、 『霊異記』の中の三論宗(道慈、智光)、華厳宗(戒明)、光明皇后、鑑真に関する記事を分析して、 これらの人々に対する敵対心を読み取っている(14)。 志田氏によるこのような検討は重要だと思われるが、近年の研究と照らし合わせてみると、興味深いことに、 氏が個別にあげているこれらの人物のほとんどが、 法相・三論両宗による所謂「空有の論争」で法相宗と激しく対立した「大安寺三論」と称される集団に関連していることがわかる。 先行研究(15)に基づいて、この論争の流れをまとめてみると、以下のようになる (参考のために『霊異記』所収の記事も並べている)。
ここで「空」なり「三論」なりと言われている「大安寺三論」のグループであるが、 インドの中観派や吉蔵が開いた三論宗などからの単純な延長線上にあるのではなく、 論争も単なる「空」と「有」との対立ではなく様々な要素が混入した非常に複雑なものとなっている点は注意しておきたい。 詳細は先行研究にゆずるが、ここでは次の三点に注目したい。
まず第一点は、平井俊榮氏が『掌珍量噵』を分析して 「隠れた主題が仏性論にあった(28)」と指摘しているように、 この論争が一切皆成か一分不成仏かを争う論争であったという側面がある点である(29)。 これは遡れば法蔵『華厳経探玄記』巻一において、法相宗の三時教判に基づく空有の対立を一乗(一切皆成)と 三乗(一分不成仏)の対立に読み替える言説(30)に由来すると考えられる。 松本信道氏が指摘するように(31)、逸文ではあるが、 蔵俊『唯量抄』巻上には道慈が五姓各別説(基『成唯識論掌中枢要』の「二乗之果比量」)を批判したという 記事が見え(『日仏全』三一・七九上〜下)、 慶俊には法宝『一乗仏性究竟論』の注釈があったとされる(32)。
第二点は、この論争が『大仏頂経』の真偽論争と大きく関わっていたことである。 これは、慈恩大師基が空に執着する者として強く批判したインド中観派の清弁(Bhāvaviveka、四九〇頃〜五七〇頃)の推論(比量)と ほとんど同文のものが『大仏頂経』に見られるためである。 唐や新羅においても清弁の比量をめぐって多くの議論がなされたが、清弁が三論宗の祖と位置づけられたことはなく、 空有の論争という文脈で『大仏頂経』が話題になったこともない(33)。 しかし日本では、奈良時代に清弁を三論宗の祖師の一人として位置づけていたようである(34)。 第一点目との関連で言えば、時代は下るが、『常暁和尚請来目録』において『大仏頂経』の注釈書を空有の論争のための 「一乗奥理」を顕すものと評価している(大正五五・一〇六九中)という例もある。
三点目は、鑑真一派や最澄と大安寺との密接な関係である。 単に人間関係が密接だというだけではなく、拙論(35)で指摘したように、 鑑真一派が将来し大安寺等で講義していた相部律宗の思想が、中国で法相宗の慧沼らと仏性論争を繰り広げた法宝の思想と重なる点が多い点や、 鑑真一派が仏頂系の密教を修していた可能性がある点などが注目される。 さらに言えば、景戒が敵対していた人物として志田氏があげる戒明や光明皇后は、 鑑真の弟子である思託が編纂した『延暦僧録』に立伝されている人物であり、これらの人々が鑑真一派によって顕彰されていたことが伺われる。
以上の三点を考慮すると、後の最澄・徳一の論争もまた空有の論争の延長線上にあることが見えてくる。 延暦二十一年、最澄の高雄講経によって「三論法相、久年之諍、渙焉氷釈」したという謝表が、 道慈の高弟である大安寺三論宗の善議を筆頭として出されている(36)のは、 最澄が(天台宗の立場を守りつつも)三論宗よりの立場で法相・三論の対立に参加していることを示唆している。 最澄が『決権実論』において、清弁を「内証の一乗」を説く論師として数えているのは、 その傍証となろう(伝全二・七〇〇)。 逆に、中国における仏性論争の主要人物の一人である霊潤のことを徳一が「三論宗の人」と見なしていたことを示唆する例もある (『一乗要決』巻上、大正七四・三四一上)が、 これは徳一もまた最澄との論争を法相・三論の対立の延長線上でとらえていた可能性を示唆しているように思われる。
各時代の個々の論争においてそれぞれ固有の論点があり、全体を安易にひとくくりにすることには慎重であるべきであろう。 しかし、日本では、空有の論争と仏性論争、三一論争との間に、「一連の論争」と言ってよいほどの連続性を認めることができると言っても 言い過ぎではないのではないだろうか。
そして、景戒は日本仏教史上でも稀に見る長く激しい論争の中で『霊異記』を執筆したことがわかる。 志田氏の指摘するような態度を景戒に認めるならば、景戒はこの論争を意識しつつ『霊異記』を撰述していた可能性は大いにあるだろう。 例えば『霊異記』において、法相宗の論争相手であった智光(中巻七縁)や戒明(下巻十九縁)がネガティブに表現されているのは、 このような時代背景を反映したものとは言えないだろうか。 少なくとも、このような当時の仏教界におけるたいへん大きな話題について、景戒がまったく無知であったとは考えがたい。
景戒がこのようなコンテクストに身を置き、法相宗よりの立場で『霊異記』を書いていたとすると、景戒が自身の夢を、
「子多数有り」とは、化ふる所の衆生なり。「養ふ物無し」とは、無種性の衆生は、仏に成らしむるに因無きなり。 「食を乞ひて養ふ」とは、人天の種子を得るなり。
と解釈している箇所は注目される。 なぜなら、この箇所について従来の研究では「(仏縁のない衆生に対して)人間界や天上界という上界に生れて、 仏縁の糸口がつかめるようにするのである」(37)と解釈したり、 「観音の乞食は現在は成仏の因無き衆生にまで、隠れている仏性を顕す機会を与えるために、 来世にむけて人天の種子を得させるのだといおうとしている」(38)と解釈したりするなど、 無性有情(仏果や二乗の果を得るのに必要な本有種子を有していない衆生)が将来的には成仏できる、というような、 一切皆成思想的な考えを景戒が持っていたとしているからである。寺川眞知夫氏はさらにこれを押し進めて、 景戒が「より天台的な思想に近寄り、より大乗的な立場に立つに至った」と述べている(39)。 このような解釈の背景には、観音信仰が『法華経』に基づくものであったり、「大白牛車」という『法華経』の用語や 「浄土万徳の因果」という浄土信仰を想起させる用語が観音の夢に見られたりする点があるようであるが、 観音信仰や『法華経』、浄土信仰は一乗家の独占物ではない。
観音信仰との関わりについては後に節を改めて論ずるので、ここでは玄奘『十一面神呪心経』を注釈した慧沼『十一面神呪心経義疏』の記述が 奈良時代の彫刻に影響を与えたという説(40)を指摘するにとどめる。『法華経』等に関しては、 法相宗が「三乗真実・一乗方便」を主張したという極めて単純化された見方が研究者の間で意外に広く共有されているためか、 景戒が『法華経』や『涅槃経』などの一乗家の重視する経典を引くことを根拠に 法相宗的な立場からの「軌道修正」(41)などと短絡しがちであるが、 法相宗の三時教判においては『法華経』『涅槃経』は唯識系経論と並ぶ第三時教であるうえ(42)、 拙論(43)で指摘したように法相教学では「一乗方便」説と並んで「一乗真実」説も説いている。 したがって法相教学においては「大白牛車」や「一切衆生悉有仏性」といった経文も五姓各別説の範疇で会通されるのである。 浄土願生についても、例えば『瑜伽論』巻四七には菩薩の「十種大願」の六番目に「往趣諸仏国土」 (大正三〇・五五五中)があげられており、 天親『菩提心経論』にも「十大正願」の第二に同様の願があげられている (大正三二・五一〇中)(44)。 これらもやはり五姓各別説と矛盾しないばかりでなく、慧沼『勧発菩提心集』でも発菩提心にともなう発願の具体例として引用されており (大正四五・三八〇中)、後に見る菩薩戒の議論と接続する。
もっとも五姓各別説と矛盾しないからと言って、逆に景戒を五姓各別論者であると単純化することもまた短絡であろう。 すでに様々な先行研究で指摘されているように、日中韓にまたがる多種多様な文献や伝承の上に『霊異記』が成立していることは間違いなく、 それらを法相宗ないし五姓各別というキーワードだけで統合することは不可能であろう。 ただし、五姓各別の用語で説かれている部分をあえて一切皆成的に解釈するべき積極的な要素は見られないので、 ここは大枠としては五姓各別説に基づいていると考える方が穏当であろう。
では、右の景戒の夢解きは、五姓各別説においてどのように解釈されるのであろうか。 基の『成唯識論掌中枢要』には定性二乗と無性有情の存在証明(経証と論証)が説かれているのであるが、 ここでは「無種性の衆生」が「人天の種子」を得ることの意味について、次のように明確に示されている。
無種姓人証者、涅槃三十六云「善男子。若説一切衆生定有仏性、是人名為謗仏法僧。若説一切定無仏性、此人亦名謗仏法僧」。(中略)
又善戒経種性品云「無種性人、雖復発心勤行精進、終不能得無上菩提」。又彼経云「無種姓人、但以人天善根而成就之」。
又荘厳論「無涅槃法有二、一時辺、二畢竟」等、如前已説。
又勝鬘云「離善知識無聞非法衆生、以人天善根而成就之」等。
金剛経云「毛道生」、今云愚夫生。梵云婆羅、此云愚夫。本錯云縛羅、乃言毛道。
無性量云、所説無性決定応有、有無二性随一摂故、如有性者。或聖所説故、如説有性。 (大正四三・六一二上〜中)
右にあげたのは無種姓の証明部分であるが、 ここでは『涅槃経』『善戒経』(45)『大乗荘厳経論』『勝鬘経』『金剛般若経』を引いて経証とし、 「無性量云」以下の推論(比量)による証明をそれに加えている。 ここで『涅槃経』『勝鬘経』などの一乗経典があげられている(定性二乗の証明では『法華経』も経証のひとつとしてあげられる)ことに、 違和感をおぼえるかもしれないが、先にも少しく述べた三時教判においてこれらの経典は第三時中道教であるうえ、 法相宗の立場からすれば仏説である『法華経』や『涅槃経』に五姓各別の根拠を見出そうというのはむしろ自然である。 そしてこの傾向は日本においても受け継がれており、景戒と同時代の徳一は、 より積極的に『法華経』から五姓各別の文証を見出そうとしている(46)。
さて、観音の夢との関連で言えば、傍線を引いた『善戒経』『勝鬘経』の引用部分が該当するだろう。 ここに「人天の善根を以てこれを成就せしむ」とあるように、 三乗の機根を欠き、六界を出ることがそもそもできない無性有情に対しては、 仏教を説き、善を積ませ、善趣に転生させることが菩薩行なのである、と説かれているのである。 そしてこの『枢要』の存在証明は、一分不成仏論者がよりどころとし、拡張していったものである一方、 当然のことながら一切皆成論者が最大の批判対象のひとつとしたものであるので(47)、 法相・三論の論争の拡大とともに『枢要』のこの部分も広く知られていたと思われる。 したがって景戒の観音の夢の解釈も、このような五姓各別説の枠内でなされたと考えるべきであろう。
次に指摘しなければならないのは、 観音の夢を構成する (1) 懺悔による滅罪 → (2)(夢の中での(48))観仏 → (3) 大乗の修行者としての確信、という流れが、菩薩戒の受戒の流れと類似しているのではないか、という点である。
近年、山部能宜氏が明らかにしてきたように(49)、菩薩戒は単なる倫理的なものではなく、 懺悔による神秘体験を前提とした入門時の実践であった。ここでは典型的な例として『梵網経』を引いておこう。
仏滅度後、欲心好心受菩薩戒時、於仏菩薩形像前自誓受戒。当七日仏前懺悔、得見好相便得戒。 若不得好相、応二七三七乃至一年、要得好相。得好相已、便得仏菩薩形像前受戒。 若不得好相、雖仏像前受、戒不得戒。若現前先受菩薩戒法師前受戒時、不須要見好相。 何以故、以是法師師師相授故、不須好相。是以法師前受戒即得戒、以生重心故便得戒。 若千里内無能授戒師、得仏菩薩形像前受戒而要見好相。(大正二四・一〇〇六下)
ここで言う「好相」こそが、神秘体験の中で見る仏菩薩の姿である。 菩薩戒と言えばこの『梵網経』が有名であるし(50)、 最澄による大乗戒壇独立運動などによって天台宗のイメージが強い。 しかしながら、以前より『梵網経』が『菩薩地持経』に基づいていることは指摘されているうえ、 山部氏がインドにおける菩薩戒と見仏体験との関係を論じる中で「一見合理的に見える『菩薩地』は、 実際の使用にあたっては、より神秘的で見仏懺悔の要素を含む 『優波離所問経』と対になって用いられたのではないかと思われるのである(51)」と述べているように、 『瑜伽論』をはじめとする唯識学派のテキストにおいては観仏体験を伴う菩薩戒の受戒は実践論上の重要な要素である。 後に見るように、中国の唯識派においてもこのような菩薩戒の伝統は受け継がれているうえ、 景戒が多く依拠している太賢『梵網経古迹記』をはじめとして新羅の唯識学派には『梵網経』の注釈書が多い。
日本においても、鑑真来日以前には『瑜伽論』や『占察経』による自誓受戒が行なわれていたことはよく知られているが、 新羅の疏に多く依拠した『梵網経略抄』という著作もある善珠には、『本願薬師経鈔』という『薬師経』の注釈書があり、 そこには菩薩戒と同様の「懺悔―(至誠心)―受戒―功徳という、相互の有機的な連関」が見られ、名畑崇氏によれば 『霊異記』や最澄『願文』などとの「共通の意識がはたらいていたこと」の現れであるという(52)。 ここには観仏体験については記されていないものの、 その内容から桓武朝における「特定の斎会のために書かれたもの」と予想されることから(53)、 景戒の時代に法相宗の僧が菩薩戒的な実践を行なうことは不自然なことではなかったであろう。 また、木霊の夢、十一面観音の造立、菩薩戒の盛行が組み合わされている『三宝絵』下巻二〇条「長谷菩薩戒」も、 天台宗よりの内容ではあるが、関連する例として興味深い(北條勝貴氏のご教示による)。
さて、菩薩戒と五姓各別説との関連であるが、『瑜伽論』巻三五で菩薩戒の前提となる発菩提心に必要な四因の筆頭に 「菩薩種姓の具足」(大正三〇・四八一中)があげられていることを、まず指摘しておかねばなるまい。 加えて観音の夢との関連で言えば、『瑜伽論』巻三〇・声聞地第十三・第三瑜伽処に 瑜伽師に入門する弟子と師匠との間でかわされる受戒儀礼にも似た問答がマニュアル的に記される中で、 種姓説への言及がある点が注目される。 ここでは、師となる瑜伽師に対する弟子からの挨拶の仕方や、 師からの「仏法僧に帰依するか?」というような質問の仕方が述べられた後 (大正三〇・四四八下〜四四九上)、 師が弟子について確認すべき項目とその方法が列挙されている(四四九上)。 確認すべき項目とは、
の四点であり、確認するための方法とは、
の四点である。この中、例えば言論によって相手の種姓を確認するためには、次のようにするよう説かれている。
対其前、応以顕了正理相応衆雑美妙易解言詞、説声聞乗相応言論。 彼聞宣説此言論時、若身中有声聞種姓、於此言論便発最極踴躍歓喜深生信解。 若身中有独覚種姓・大乗種姓、於此言論不発最極踊躍歓喜不生信解。 次復為其説独覚乗相応言論、彼聞宣説此言論時、若身中有独覚種姓、於此言論便発最極踊躍歓喜深生信解。 若身中有声聞種姓・大乗種姓則不如是。 後復為其宣説大乗相応言論、彼聞宣説此言論時、若身中有大乗種姓、於此言論便発最極踊躍歓喜深生信解。 若身中有声聞種姓・独覚種姓則不如是。(大正三〇・四四九中)
すなわち、「身中」に声聞種姓を持つ者に対して声聞の教えを聞かせてやれば、最も喜び深い信心を生じるというように、 種姓によって反応する言論が異なるというのである。 また、知他心差別智については、次に引用するように瑜伽を修めた者であれば可能であると述べられている。
云何名為応以知他心差別智尋求種姓及以根行。謂如有一善達瑜伽・修瑜伽師、以得知他心差別智。 彼由如是他心智故、如実了知種性根行。(大正三〇・四四九下)
これらの例からも、唯識派の入門儀礼において、師匠が弟子の種姓を見抜き、弟子が自己の種姓を自覚する、 という実践がなされていたことがわかるが、 観音の夢において景戒が鏡日とのコミュニケーションの中で自己の菩薩種姓を自覚したというプロセスとの共通性が指摘できるだろう。 この箇所は『梵網経古迹記』でも取り上げられており(大正四〇・七一一中)、 景戒が参照していた可能性は充分ある。
想像を逞しくすれば、『霊異記』には聖徳太子が「通眼」によって隠身の聖を見抜いたという記事(上巻四縁)や、 行基が「神通」を以て智光の考えを見抜いたという記事(中巻七縁)、 行基が「天眼」を持っていたとする記事(中巻二九縁)が見られるが(54)、 これらは単なる「超人的な力」や「洞察眼」ではなく、 聖徳太子や行基を優れた瑜伽師として描写しようとする景戒の意図による表現とも考えられよう。
次に問題にしなければならないのは、鏡日がなぜ観音菩薩と解釈されなければならなかったのか、という点であろう。 これまで、「楠見寺伝来の行基作十一面観音を鏡日に見立て」たとする原田行造氏の説(55)、 鏡日を葛城の山岳信仰と関係する「観音を奉ずる山岳宗教者」とする丸山顯徳氏の説(56)などが示されており、いずれも興味深いが、ここでは別の可能性を指摘したい。
前節で述べたような神秘的な観仏体験は、玄奘三蔵が強く持っていたものでもあった。 玄奘はインド旅行の途上、特に中央アジアにおける聖遺物・遺骨崇拝に強い関心を示し、 また自身の観仏体験を伝記などに残している(57)。 そのような玄奘が、ナーランダ寺院の東にある伊爛拏鉢伐多国への途上にあった迦布徳(迦)(カポータカ)伽藍の南の観音霊場に 巡礼した説話が、『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』巻三に見られる。 この説話は、観音の観仏体験や五姓各別など、景戒の観音の夢と共通する要素を持つ点で注目される。
従此復往伊爛拏鉢伐多国。 在路至迦布徳伽藍、伽藍南二三里有孤山、巖巘崇崒灌木蕭森、泉沼澄鮮花卉芬馥、既為勝地霊廟寔繁、感変之奇神異多種。 最中精舍、有刻檀観自在菩薩像、威神特尊、常有数十人、或七日二七日、絶粒断漿請祈諸願、心殷至者、 即見菩薩具相荘厳威光朗曜、従檀像中出、慰喩其人与其所願、如是感見数数有人、以故帰者逾衆。 其供養人恐諸来者坌汚尊儀、去像四面各七歩許、豎木构欄。人来礼拝、皆於欄外、不得近像、所奉香花亦並遥散。 其得花住菩薩手及掛臂者、以為吉祥、以為得願。
法師欲往求請、乃買種種花穿之為鬘、将到像所、至誠礼讃訖向菩薩、跪発三願。
一者於此学已、還帰本国得平安無難者、願花住尊手。
二者所修福慧、願生睹史多宮、事慈氏菩薩。若如意者、願花貫挂尊両臂。
三者聖教称衆生界中有一分無仏性者、玄奘今自疑不知有不。若有仏性修行可成仏者、願花貫挂尊頸項。
語訖以花遥散、咸得如言。既満所求歓喜無量。其傍同礼及守精舍人、見已弾指嗚足言未曾有也。 (大正五〇・二三九下)
この観音像は、『霊異記』にしばしば登場する仏菩薩の像と同様、心から願うことでその姿を現し、 行者の願いをかなえてくれる(傍線部)ということで深い信仰を集めていたという。 玄奘はその観音像に花を投げることで三つの願かけをするのであるが、その二番目が観仏信仰とも関係が深い兜率天往生の願い(上生信仰)であり、 三番目が「自分に仏性があり成仏できるならば、観音の首に花がかかりますように」という、観音の夢と共通する要素を持つ願いであった。 玄奘のように自身の仏性の有無を不安に思う例は、五姓各別説を奉ずる法相宗の僧侶に多く見られたものであろうと想像される。 景戒の観音の夢もまたそのような文脈で理解することが可能であるし、 時代は下るが良遍が実母のために書いたという『法相二巻抄』に見える「問云、五性各別ノ義ニ付テ、我ガ身モ定性無性ニテモヤ有ルラン。 サラバ浄土菩提ヲ願テモ由無」(58)という文句で始まる問答も、 やはりこのような宗教的な不安を前提としたものだったのではないだろうか。
次に、法相宗第二祖とされ、先に見た仏性論争においても大きな役割を果たした慧沼の『勧発菩提心集』を見てみよう。 この文献は、その名の通り発菩提心に関する諸経論を集めた引用集なのであるが、 この中に「大唐三蔵法師伝西域正法蔵受菩薩戒法」と題された一節がある。 これは叡尊『勧発菩提心集流壅記』に、
三聚浄戒標門中、済恩寺本表紙曰「大唐三蔵法師玄奘伝西域正法蔵等受菩薩戒法、大乗基録五紙」。 承暦四年七月以件本勘校、其義是同、而支少異。 件別行本従長誉院奉請之。権律師永超親校。(日蔵六七・三五六上)
と述べられている通り、元々叡尊が持っていた本では「三聚浄戒標門」と題されていたが、 「済恩寺本」なる別系統の写本によってこれが慈恩大師基が記録した一書ということがわかったようである。 これを素朴に受け取れば、玄奘三蔵がインド乃至中央アジアから伝えた菩薩戒の受戒方法を基が記録し、 慧沼がそれを『勧発菩提心集』の一節として引用した、ということになるだろう。 玄奘や基が本当にこのような文献を残したのかどうか、という点ももちろん興味深いが、 本稿の目的に即せばとりあえず日本において右のような伝承が(遅くとも叡尊の頃には)存在していた、ということが確認できればよい。
さて、この「大唐三蔵法師伝西域正法蔵受菩薩戒法」には、 受戒の際の懺悔と菩薩種姓の必要性、そして受戒の際の観仏体験(受戒者と、受戒を証明するために姿を現した諸仏との対話)が記されており、 注目される。この中、観仏体験は次のようなものである。
次当為說三品心受戒、於十方諸仏所、有三品相現。 或涼風、或妙香、或異声、或光明等、種種相現。 彼諸菩薩各各問仏「何因緣故有此相現」。 彼仏各答云「於某方処索訶世界、在某処所、有某甲衆多菩薩、於某甲師所、說受菩薩戒。今証明所以有此三品相現」。 彼彼菩薩咸生歓喜。各各皆言「於如是等極悪処所、如此具足雑染煩悩悪業有情、能発如是極勝之心、受菩薩戒、甚為希有。 深生憐愍、於汝等所、起同梵行心。是故汝等宜応至心護持浄戒、不惜身命而勿毀犯」。(大正四五・三九七上)
傍線を引いた「或涼風、或妙香、或異声、或光明等」によって諸仏の相を現す、という部分は、 仏菩薩を目の当たりにする神秘体験というよりは、徴表による儀礼的な疑似観仏体験が実践されていたことを予想させる記述である(補注1)。 また先に『勧発菩提心集』は引用集であると述べたが、「弟子某甲が○×と述べる」のように具体的な所作に関する引用においては、 より具体性を持たせるような独自の改変が見られる(59)。 これらのことから『勧発菩提心集』の実践マニュアル的色彩が読み取ることができよう。
加えて、観音の夢に関連して言えば、次の一文が注目される。
是故仏子応受応持。若有持者、従初発心乃至妙覚、随縁施化。若有衆生感真法者、現菩薩形而往度之。 若感応者、現優婆塞形而往度之如観音等(大正四五・三八八中)
これは恐らく『浄行優婆塞戒経』(散逸)(60)の引用の一部と思われる。 逸文であるため正確に文脈を捉えることが難しいが、前後の引用が菩薩戒の受戒に関することなので、 これも菩提心を発し菩薩戒を受けた優婆塞が菩薩行として衆生を教化する様を述べている箇所なのであろうと思われる。 この教化の際、この優婆塞=菩薩は「真法を感じた衆生」に対しては菩薩の姿で現れ、 もし感応すれば「優婆塞の形」で現れるのだが、これが「観音等の如し」であるというのである。 この「観音等の如し」の部分は割注であるため、『浄行優婆塞戒経』に元々あった文なのか慧沼以降の伝写における挿入なのかはわからないが、 いずれにせよこの記述は菩薩戒の文脈において観音に言及される例として注目される。 叡尊が重視していたとは言え、景戒の時代にどの程度この文献の内容が知られていたかは不明であるが、 観音の夢において鏡日=観音という解釈を生んだ可能性の一つとして指摘しておきたい。
以上、唯識派/法相宗の思想を中心に、景戒が観音の夢を解釈する際に材料となった可能性の高いものをいくつか列挙し、考察してみた。 冒頭で述べたように、本稿で行なった作業は、観音の夢の「可能態」を検討する途上のものであって、 従来の研究が明らかにしてきた様々な説話の要素を否定するためにしているものではない。 右に引いた経論が観音の夢の直接の典拠であると断定することはできないが、 東アジアの唯識学派・法相宗においては、菩薩戒を含めた幅広い入門の実践のなかで、 特に自身の素質=種姓を入門者が自覚するという場面で悔過や観仏体験が実践されてきたこと、 そして観仏体験の場面に観音菩薩が登場することもあり得る、ということを示すことはできたと思う。 従来の研究では、観音の夢を表相思想との関連で未来のことについての前兆と解釈する説が多いが、 この菩薩戒的な枠組みを重視するならば、この「聖示」は菩薩戒の受戒を認めたことを観音菩薩自らが姿を現すことで示したということ、 換言すれば景戒が廻心向大(小乗から大乗への改宗)をして大乗の菩薩となったことを観音菩薩が認めたと解釈することも可能である。 さらに、後の「伝灯住位を得る」という記述を踏まえれば、個人的な夢解きが公的な制度によって裏付けられた、 というような景戒の意識も読み取れよう。
加えて確認しておかなければならないのは、このような菩薩戒の受戒にも似た「聖示」が、 景戒が正式な具足戒を受ける前だったのか後だったのか、という点であろう。 従来の研究では、「俗家に居て妻子を蓄ふ」とある点や、夢の解釈で「「慙愧づ」は、鬢髮を剃除り袈裟を披著るなり」とあることから、 受戒前だとする見解が多い。 しかし、出雲路修氏が「妻子の有無と私度か否かということとは無関係」(61)と 述べており、また夢の解釈でも、
「我れ身を受くることただし五尺余のみ有り」とは、「五尺」は、五趣の因果なり。「余」は不定姓の、心を廻して大に向くなり。
と述べている点に注目すれば、小乗から大乗への転向後、 小乗の戒律である具足戒を受けるというのは不自然であろう(62)。 したがって、すでに具足戒を何らかの形でうけていた景戒が、観音の夢をきっかけに大乗への転向を確信した、 というのが穏当な解釈のように思われる。
また少数の例ではあったが、観音の夢だけでなく、『霊異記』の他の箇所でも、法相宗の思想や論争史的な状況が背景にあることを 示すことができたと思う。これらの例から、『霊異記』というテクストが宗教的実践の伝統によって裏付けられているというだけでなく、 北條勝貴氏の言うように『日本書記』や『延暦僧録』に対抗しようとした仏教史叙述の実践だったと位置づけることが 可能になるかもしれない(63)。 今後はこの可能性を検討することが、『霊異記』研究の課題のひとつとなってくるのではなかろうか。 少なくとも『霊異記』が「人々の仏教信仰のあり方も、当時の実体を直接反映している」とする従来の考え方については、 再検討する必要があるだろう。
さらに言えば、唯識思想や法相教学というものを八識説や三性説といったものだけに限定して『霊異記』を読み解こうとしても、 あるいは「一切衆生悉有仏性」こそが(日本)仏教だという先入観に縛られていても、景戒の言説を理解することはできないだろうと思う。 観仏信仰をはじめとするインド以来の唯識派、東アジアの法相宗の人々が有していた豊かな宗教的世界を理解することで、 従来「学問仏教」とよばれ矮小化されてきた(64)法相宗の思想や宗教性を 再評価できるようになるのではないだろうか。『霊異記』はその意味でも、格好の材料であると言えるだろう。
本稿は、花園大学特別個人研究費(二〇〇七年度)による成果の一部である。 また、本稿の準備のための口頭発表(佛教史学会例会〔二〇〇六年一月、龍谷大学〕、東アジア仏教研究会大会〔二〇〇六年十二月、駒澤大学〕、 南都文化研究組織シンポジウム〔二〇〇七年三月、 元興寺文化財研究所〕等)に対して、多数のコメントを頂いた。記して感謝申し上げる。
以下の補注は論文が出た後のもの。