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以下のテキストは、『佛教史学研究』第50巻第2号(2008年3月、pp. 30-52)に掲載された論文の提出原稿をHTML化したものです。 実際に掲載されたものと異なる場合があると思いますが、ご了承ください(漢文中の返り点や送り仮名等は省略してあります)。


五姓各別説と観音の夢
―『日本霊異記』下巻第三十八縁の読解の試み― このエントリーを含むはてなブックマーク

師 茂樹

1. 問題の所在

『日本霊異記』下巻第三十八縁は、作者である景戒が自身について述べる記述があることから、これまで多くの研究が積み重ねられてきた。 ここでは、景戒が見た二つの夢が紹介され、それに対する景戒の解釈が述べられているが、 本稿では第一番目の夢とその解釈(以下、「観音の夢」とする)について考察したい。 観音の夢とは、次のようなものである(1)

この夢については、国文学の研究者を中心に、観音悔過との関係(2)、 陰陽道との関係(3)、日本の古代信仰との関係(4)、 弥勒信仰や菩薩信仰などの仏教との関係(5)、 宗教心理的な分析(6)など、これまで多くの研究が積み重ねられてきた。

一方、この夢に対して景戒が五姓各別説(7)に基づいた解釈をしている点については、 菊池良一氏が指摘して以来注目されてはいたものの(8)、 五姓各別説とは対立的な天台教学への関心が指摘されたこと(9)以外、 議論は深められていないように思われる。 その理由の一端は、仏教学の研究者が『霊異記』などの文学作品にあまり関心を持たなかったこともあるが、 五姓各別説自体が唯識思想の他の要素と比べて関心が低かったという現状もあるだろう。

歴史学の分野では近年、考古学の発掘調査に対応する記述が『霊異記』に見出されたり(10)、 吉田一彦氏が『霊異記』に地方豪族層や民衆の姿が「いきいきと書かれている」と見なして(説話は史実とは言えないものの) 「人々の仏教信仰のあり方も、当時の実体を直接反映している」(11)と主張したりするなど、 「史料」としての価値が再評価されつつある(12)。 一方、北條勝貴氏は、『霊異記』が景戒によって物語られたものであるという点に注目し、 当時の複雑で多様なコンテクストのなかで景戒がある条件において取捨選択し物語化していったこと、 換言すれば『霊異記』に収録された説話以外のあり方も条件によっては可能性としてあり得た(「説話の可能態」)という前提で 景戒の言説を分析すべきであると主張している(13)

本稿では、北條氏の問題意識を受け、五姓各別説をはじめとする思想史的な文脈を網羅的に確認することを目的とする。 従来あまり検討されてこなかった景戒と『霊異記』がおかれていた思想史的なコンテクストについていくつか指摘することで、 景戒の観音の夢を解釈する際の参照枠を拡大することができればと思っている。

2. 論争史の中の景戒

2.1 空有の論争と景戒

志田諄一氏は「『霊異記』の背景には、法相宗教学の自己主張、薬師寺の自己擁護の性格がかなり強くかくされているのである」と指摘し、 『霊異記』の中の三論宗(道慈、智光)、華厳宗(戒明)、光明皇后、鑑真に関する記事を分析して、 これらの人々に対する敵対心を読み取っている(14)。 志田氏によるこのような検討は重要だと思われるが、近年の研究と照らし合わせてみると、興味深いことに、 氏が個別にあげているこれらの人物のほとんどが、 法相・三論両宗による所謂「空有の論争」で法相宗と激しく対立した「大安寺三論」と称される集団に関連していることがわかる。 先行研究(15)に基づいて、この論争の流れをまとめてみると、以下のようになる (参考のために『霊異記』所収の記事も並べている)。

養老二(七一八)
道慈帰朝(『大仏頂経』伝来?)。
養老四(七二〇)
『日本書紀』成立(『大仏頂経』に基づいた道慈による潤色(16))。
天平七(七三五)
玄昉帰朝(『掌珍論』伝来?)。
天平八(七三六)
中臣名代帰朝(『大仏頂経』再請来)。
天平八〜一八
三論・法相の僧を請集し『大仏頂経』の真偽について「検考」する(17)
天平十六(七四四)
智光、行基を誹る(中巻七縁)。
天平十七(七四五)
中臣名代没。
勝宝四(七五二)
智光、法相宗を激しく批判する『般若心経述義』を執筆か(18)
宝亀三(七七二)
戒明、徳清入唐。
宝亀七(七七六)
『東大寺六宗未決義』申上。
宝亀七〜八頃
戒明、安居会で八十華厳を講じた際、猴聖を呵責(下巻十九縁)。
宝亀十(七七九)
諸僧都等が大安寺に集まり『大仏頂経』が偽経であると主張、戒明が連署を拒否。思託、大仏頂行道。
延暦六(七八七)
景戒、観音の夢を見る(下巻三八縁)。『霊異記』第一次編纂か(19)
延暦七(七八八)
景戒、自身を火葬する夢を見る(下巻三八縁)。
延暦十四(七九五)
景戒、伝灯住位を得る(下巻三八縁)。
延暦十六(七九七)
景戒の息子死ぬ(下巻三八縁)。
延暦十七(七九八)
三論・法相の争いを調停しようとする詔(20)
延暦十九(八〇〇)
景戒の馬死ぬ(下巻三八縁)。
延暦二十(八〇一)
三論・法相の争いを調停しようとする詔(21)
延暦二一(八〇二)
三論・法相の争いを調停しようとする詔(22)。最澄の高雄講経に対し、善議の謝表。
延暦二二(八〇三)
三論・法相の争いを調停しようとする詔(23)。 霊船、「空有の論争」に関する唐決のために入唐か(『法相髄脳』)。
延暦二三(八〇四)
三論・法相の争いを調停しようとする詔(24)
弘仁四(八一三)
紫宸殿に諸宗の大徳が集まる中、大安寺三論宗の勤操が法相宗を批判(25)
弘仁五(八一四)
最澄、大安寺で天台を講じ、南都の大徳と論争。
弘仁八(八一七)
最澄、東国で『照権実鏡』を撰述か(26)
弘仁年間
慶俊と仁秀の論争。『掌珍量噵』成立か。『霊異記』現行本、成立か(27)
天長七(八三〇)
天長勅撰六本宗書。

ここで「空」なり「三論」なりと言われている「大安寺三論」のグループであるが、 インドの中観派や吉蔵が開いた三論宗などからの単純な延長線上にあるのではなく、 論争も単なる「空」と「有」との対立ではなく様々な要素が混入した非常に複雑なものとなっている点は注意しておきたい。 詳細は先行研究にゆずるが、ここでは次の三点に注目したい。

まず第一点は、平井俊榮氏が『掌珍量噵』を分析して 「隠れた主題が仏性論にあった(28)」と指摘しているように、 この論争が一切皆成か一分不成仏かを争う論争であったという側面がある点である(29)。 これは遡れば法蔵『華厳経探玄記』巻一において、法相宗の三時教判に基づく空有の対立を一乗(一切皆成)と 三乗(一分不成仏)の対立に読み替える言説(30)に由来すると考えられる。 松本信道氏が指摘するように(31)、逸文ではあるが、 蔵俊『唯量抄』巻上には道慈が五姓各別説(基『成唯識論掌中枢要』の「二乗之果比量」)を批判したという 記事が見え(『日仏全』三一・七九上〜下)、 慶俊には法宝『一乗仏性究竟論』の注釈があったとされる(32)

第二点は、この論争が『大仏頂経』の真偽論争と大きく関わっていたことである。 これは、慈恩大師基が空に執着する者として強く批判したインド中観派の清弁(Bhāvaviveka、四九〇頃〜五七〇頃)の推論(比量)と ほとんど同文のものが『大仏頂経』に見られるためである。 唐や新羅においても清弁の比量をめぐって多くの議論がなされたが、清弁が三論宗の祖と位置づけられたことはなく、 空有の論争という文脈で『大仏頂経』が話題になったこともない(33)。 しかし日本では、奈良時代に清弁を三論宗の祖師の一人として位置づけていたようである(34)。 第一点目との関連で言えば、時代は下るが、『常暁和尚請来目録』において『大仏頂経』の注釈書を空有の論争のための 「一乗奥理」を顕すものと評価している(大正五五・一〇六九中)という例もある。

三点目は、鑑真一派や最澄と大安寺との密接な関係である。 単に人間関係が密接だというだけではなく、拙論(35)で指摘したように、 鑑真一派が将来し大安寺等で講義していた相部律宗の思想が、中国で法相宗の慧沼らと仏性論争を繰り広げた法宝の思想と重なる点が多い点や、 鑑真一派が仏頂系の密教を修していた可能性がある点などが注目される。 さらに言えば、景戒が敵対していた人物として志田氏があげる戒明や光明皇后は、 鑑真の弟子である思託が編纂した『延暦僧録』に立伝されている人物であり、これらの人々が鑑真一派によって顕彰されていたことが伺われる。

以上の三点を考慮すると、後の最澄・徳一の論争もまた空有の論争の延長線上にあることが見えてくる。 延暦二十一年、最澄の高雄講経によって「三論法相、久年之諍、渙焉氷釈」したという謝表が、 道慈の高弟である大安寺三論宗の善議を筆頭として出されている(36)のは、 最澄が(天台宗の立場を守りつつも)三論宗よりの立場で法相・三論の対立に参加していることを示唆している。 最澄が『決権実論』において、清弁を「内証の一乗」を説く論師として数えているのは、 その傍証となろう(伝全二・七〇〇)。 逆に、中国における仏性論争の主要人物の一人である霊潤のことを徳一が「三論宗の人」と見なしていたことを示唆する例もある (『一乗要決』巻上、大正七四・三四一上)が、 これは徳一もまた最澄との論争を法相・三論の対立の延長線上でとらえていた可能性を示唆しているように思われる。

各時代の個々の論争においてそれぞれ固有の論点があり、全体を安易にひとくくりにすることには慎重であるべきであろう。 しかし、日本では、空有の論争と仏性論争、三一論争との間に、「一連の論争」と言ってよいほどの連続性を認めることができると言っても 言い過ぎではないのではないだろうか。

そして、景戒は日本仏教史上でも稀に見る長く激しい論争の中で『霊異記』を執筆したことがわかる。 志田氏の指摘するような態度を景戒に認めるならば、景戒はこの論争を意識しつつ『霊異記』を撰述していた可能性は大いにあるだろう。 例えば『霊異記』において、法相宗の論争相手であった智光(中巻七縁)や戒明(下巻十九縁)がネガティブに表現されているのは、 このような時代背景を反映したものとは言えないだろうか。 少なくとも、このような当時の仏教界におけるたいへん大きな話題について、景戒がまったく無知であったとは考えがたい。

2.2 「子数多有りて養ふ物無し。食を乞ひて養ふなり」の解釈

景戒がこのようなコンテクストに身を置き、法相宗よりの立場で『霊異記』を書いていたとすると、景戒が自身の夢を、

「子多数有り」とは、化ふる所の衆生なり。「養ふ物無し」とは、無種性の衆生は、仏に成らしむるに因無きなり。 「食を乞ひて養ふ」とは、人天の種子を得るなり。

と解釈している箇所は注目される。 なぜなら、この箇所について従来の研究では「(仏縁のない衆生に対して)人間界や天上界という上界に生れて、 仏縁の糸口がつかめるようにするのである」(37)と解釈したり、 「観音の乞食は現在は成仏の因無き衆生にまで、隠れている仏性を顕す機会を与えるために、 来世にむけて人天の種子を得させるのだといおうとしている」(38)と解釈したりするなど、 無性有情(仏果や二乗の果を得るのに必要な本有種子を有していない衆生)が将来的には成仏できる、というような、 一切皆成思想的な考えを景戒が持っていたとしているからである。寺川眞知夫氏はさらにこれを押し進めて、 景戒が「より天台的な思想に近寄り、より大乗的な立場に立つに至った」と述べている(39)。 このような解釈の背景には、観音信仰が『法華経』に基づくものであったり、「大白牛車」という『法華経』の用語や 「浄土万徳の因果」という浄土信仰を想起させる用語が観音の夢に見られたりする点があるようであるが、 観音信仰や『法華経』、浄土信仰は一乗家の独占物ではない。

観音信仰との関わりについては後に節を改めて論ずるので、ここでは玄奘『十一面神呪心経』を注釈した慧沼『十一面神呪心経義疏』の記述が 奈良時代の彫刻に影響を与えたという説(40)を指摘するにとどめる。『法華経』等に関しては、 法相宗が「三乗真実・一乗方便」を主張したという極めて単純化された見方が研究者の間で意外に広く共有されているためか、 景戒が『法華経』や『涅槃経』などの一乗家の重視する経典を引くことを根拠に 法相宗的な立場からの「軌道修正」(41)などと短絡しがちであるが、 法相宗の三時教判においては『法華経』『涅槃経』は唯識系経論と並ぶ第三時教であるうえ(42)、 拙論(43)で指摘したように法相教学では「一乗方便」説と並んで「一乗真実」説も説いている。 したがって法相教学においては「大白牛車」や「一切衆生悉有仏性」といった経文も五姓各別説の範疇で会通されるのである。 浄土願生についても、例えば『瑜伽論』巻四七には菩薩の「十種大願」の六番目に「往趣諸仏国土」 (大正三〇・五五五中)があげられており、 天親『菩提心経論』にも「十大正願」の第二に同様の願があげられている (大正三二・五一〇中)(44)。 これらもやはり五姓各別説と矛盾しないばかりでなく、慧沼『勧発菩提心集』でも発菩提心にともなう発願の具体例として引用されており (大正四五・三八〇中)、後に見る菩薩戒の議論と接続する。

もっとも五姓各別説と矛盾しないからと言って、逆に景戒を五姓各別論者であると単純化することもまた短絡であろう。 すでに様々な先行研究で指摘されているように、日中韓にまたがる多種多様な文献や伝承の上に『霊異記』が成立していることは間違いなく、 それらを法相宗ないし五姓各別というキーワードだけで統合することは不可能であろう。 ただし、五姓各別の用語で説かれている部分をあえて一切皆成的に解釈するべき積極的な要素は見られないので、 ここは大枠としては五姓各別説に基づいていると考える方が穏当であろう。

では、右の景戒の夢解きは、五姓各別説においてどのように解釈されるのであろうか。 基の『成唯識論掌中枢要』には定性二乗と無性有情の存在証明(経証と論証)が説かれているのであるが、 ここでは「無種性の衆生」が「人天の種子」を得ることの意味について、次のように明確に示されている。

無種姓人証者、涅槃三十六云「善男子。若説一切衆生定有仏性、是人名為謗仏法僧。若説一切定無仏性、此人亦名謗仏法僧」。(中略)
又善戒経種性品云「無種性人、雖復発心勤行精進、終不能得無上菩提」。又彼経云「無種姓人、但以人天善根而成就之」。
又荘厳論「無涅槃法有二、一時辺、二畢竟」等、如前已説。
又勝鬘云「離善知識無聞非法衆生、以人天善根而成就之」等。
金剛経云「毛道生」、今云愚夫生。梵云婆羅、此云愚夫。本錯云縛羅、乃言毛道。
無性量云、所説無性決定応有、有無二性随一摂故、如有性者。或聖所説故、如説有性。 (大正四三・六一二上〜中)

右にあげたのは無種姓の証明部分であるが、 ここでは『涅槃経』『善戒経』(45)『大乗荘厳経論』『勝鬘経』『金剛般若経』を引いて経証とし、 「無性量云」以下の推論(比量)による証明をそれに加えている。 ここで『涅槃経』『勝鬘経』などの一乗経典があげられている(定性二乗の証明では『法華経』も経証のひとつとしてあげられる)ことに、 違和感をおぼえるかもしれないが、先にも少しく述べた三時教判においてこれらの経典は第三時中道教であるうえ、 法相宗の立場からすれば仏説である『法華経』や『涅槃経』に五姓各別の根拠を見出そうというのはむしろ自然である。 そしてこの傾向は日本においても受け継がれており、景戒と同時代の徳一は、 より積極的に『法華経』から五姓各別の文証を見出そうとしている(46)

さて、観音の夢との関連で言えば、傍線を引いた『善戒経』『勝鬘経』の引用部分が該当するだろう。 ここに「人天の善根を以てこれを成就せしむ」とあるように、 三乗の機根を欠き、六界を出ることがそもそもできない無性有情に対しては、 仏教を説き、善を積ませ、善趣に転生させることが菩薩行なのである、と説かれているのである。 そしてこの『枢要』の存在証明は、一分不成仏論者がよりどころとし、拡張していったものである一方、 当然のことながら一切皆成論者が最大の批判対象のひとつとしたものであるので(47)、 法相・三論の論争の拡大とともに『枢要』のこの部分も広く知られていたと思われる。 したがって景戒の観音の夢の解釈も、このような五姓各別説の枠内でなされたと考えるべきであろう。

3. 観音の観仏体験として解釈する背景

3.1 菩薩戒との類似

次に指摘しなければならないのは、 観音の夢を構成する (1) 懺悔による滅罪 → (2)(夢の中での(48))観仏 → (3) 大乗の修行者としての確信、という流れが、菩薩戒の受戒の流れと類似しているのではないか、という点である。

近年、山部能宜氏が明らかにしてきたように(49)、菩薩戒は単なる倫理的なものではなく、 懺悔による神秘体験を前提とした入門時の実践であった。ここでは典型的な例として『梵網経』を引いておこう。

仏滅度後、欲心好心受菩薩戒時、於仏菩薩形像前自誓受戒。当七日仏前懺悔、得見好相便得戒。 若不得好相、応二七三七乃至一年、要得好相。得好相已、便得仏菩薩形像前受戒。 若不得好相、雖仏像前受、戒不得戒。若現前先受菩薩戒法師前受戒時、不須要見好相。 何以故、以是法師師師相授故、不須好相。是以法師前受戒即得戒、以生重心故便得戒。 若千里内無能授戒師、得仏菩薩形像前受戒而要見好相。(大正二四・一〇〇六下)

ここで言う「好相」こそが、神秘体験の中で見る仏菩薩の姿である。 菩薩戒と言えばこの『梵網経』が有名であるし(50)、 最澄による大乗戒壇独立運動などによって天台宗のイメージが強い。 しかしながら、以前より『梵網経』が『菩薩地持経』に基づいていることは指摘されているうえ、 山部氏がインドにおける菩薩戒と見仏体験との関係を論じる中で「一見合理的に見える『菩薩地』は、 実際の使用にあたっては、より神秘的で見仏懺悔の要素を含む 『優波離所問経』と対になって用いられたのではないかと思われるのである(51)」と述べているように、 『瑜伽論』をはじめとする唯識学派のテキストにおいては観仏体験を伴う菩薩戒の受戒は実践論上の重要な要素である。 後に見るように、中国の唯識派においてもこのような菩薩戒の伝統は受け継がれているうえ、 景戒が多く依拠している太賢『梵網経古迹記』をはじめとして新羅の唯識学派には『梵網経』の注釈書が多い。

日本においても、鑑真来日以前には『瑜伽論』や『占察経』による自誓受戒が行なわれていたことはよく知られているが、 新羅の疏に多く依拠した『梵網経略抄』という著作もある善珠には、『本願薬師経鈔』という『薬師経』の注釈書があり、 そこには菩薩戒と同様の「懺悔―(至誠心)―受戒―功徳という、相互の有機的な連関」が見られ、名畑崇氏によれば 『霊異記』や最澄『願文』などとの「共通の意識がはたらいていたこと」の現れであるという(52)。 ここには観仏体験については記されていないものの、 その内容から桓武朝における「特定の斎会のために書かれたもの」と予想されることから(53)、 景戒の時代に法相宗の僧が菩薩戒的な実践を行なうことは不自然なことではなかったであろう。 また、木霊の夢、十一面観音の造立、菩薩戒の盛行が組み合わされている『三宝絵』下巻二〇条「長谷菩薩戒」も、 天台宗よりの内容ではあるが、関連する例として興味深い(北條勝貴氏のご教示による)。

3.2 瑜伽行派の入門儀礼と五姓各別説

さて、菩薩戒と五姓各別説との関連であるが、『瑜伽論』巻三五で菩薩戒の前提となる発菩提心に必要な四因の筆頭に 「菩薩種姓の具足」(大正三〇・四八一中)があげられていることを、まず指摘しておかねばなるまい。 加えて観音の夢との関連で言えば、『瑜伽論』巻三〇・声聞地第十三・第三瑜伽処に 瑜伽師に入門する弟子と師匠との間でかわされる受戒儀礼にも似た問答がマニュアル的に記される中で、 種姓説への言及がある点が注目される。 ここでは、師となる瑜伽師に対する弟子からの挨拶の仕方や、 師からの「仏法僧に帰依するか?」というような質問の仕方が述べられた後 (大正三〇・四四八下〜四四九上)、 師が弟子について確認すべき項目とその方法が列挙されている(四四九上)。 確認すべき項目とは、

  1. 弟子は三乗の中でどれを修行したいと希望しているのか(願)
  2. 弟子は三乗のどの種姓を有しているのか(種姓)
  3. 弟子は鈍根なのか利根なのか(根)
  4. 弟子は貪・瞋・痴・慢・尋思のうちどの性質を持った人なのか(行)

の四点であり、確認するための方法とは、

  1. 弟子に対する直接的な質問(審問)
  2. 三乗に関する言説のどれに反応するかを見る(言論)
  3. 行動、ふるまいを見る(所作)
  4. 神通力(他心通)によって知る(知他心差別智)

の四点である。この中、例えば言論によって相手の種姓を確認するためには、次のようにするよう説かれている。

対其前、応以顕了正理相応衆雑美妙易解言詞、説声聞乗相応言論。 彼聞宣説此言論時、若身中有声聞種姓、於此言論便発最極踴躍歓喜深生信解。 若身中有独覚種姓・大乗種姓、於此言論不発最極踊躍歓喜不生信解。 次復為其説独覚乗相応言論、彼聞宣説此言論時、若身中有独覚種姓、於此言論便発最極踊躍歓喜深生信解。 若身中有声聞種姓・大乗種姓則不如是。 後復為其宣説大乗相応言論、彼聞宣説此言論時、若身中有大乗種姓、於此言論便発最極踊躍歓喜深生信解。 若身中有声聞種姓・独覚種姓則不如是。(大正三〇・四四九中)

すなわち、「身中」に声聞種姓を持つ者に対して声聞の教えを聞かせてやれば、最も喜び深い信心を生じるというように、 種姓によって反応する言論が異なるというのである。 また、知他心差別智については、次に引用するように瑜伽を修めた者であれば可能であると述べられている。

云何名為応以知他心差別智尋求種姓及以根行。謂如有一善達瑜伽・修瑜伽師、以得知他心差別智。 彼由如是他心智故、如実了知種性根行。(大正三〇・四四九下)

これらの例からも、唯識派の入門儀礼において、師匠が弟子の種姓を見抜き、弟子が自己の種姓を自覚する、 という実践がなされていたことがわかるが、 観音の夢において景戒が鏡日とのコミュニケーションの中で自己の菩薩種姓を自覚したというプロセスとの共通性が指摘できるだろう。 この箇所は『梵網経古迹記』でも取り上げられており(大正四〇・七一一中)、 景戒が参照していた可能性は充分ある。

想像を逞しくすれば、『霊異記』には聖徳太子が「通眼」によって隠身の聖を見抜いたという記事(上巻四縁)や、 行基が「神通」を以て智光の考えを見抜いたという記事(中巻七縁)、 行基が「天眼」を持っていたとする記事(中巻二九縁)が見られるが(54)、 これらは単なる「超人的な力」や「洞察眼」ではなく、 聖徳太子や行基を優れた瑜伽師として描写しようとする景戒の意図による表現とも考えられよう。

3.3 玄奘の願かけ

次に問題にしなければならないのは、鏡日がなぜ観音菩薩と解釈されなければならなかったのか、という点であろう。 これまで、「楠見寺伝来の行基作十一面観音を鏡日に見立て」たとする原田行造氏の説(55)、 鏡日を葛城の山岳信仰と関係する「観音を奉ずる山岳宗教者」とする丸山顯徳氏の説(56)などが示されており、いずれも興味深いが、ここでは別の可能性を指摘したい。

前節で述べたような神秘的な観仏体験は、玄奘三蔵が強く持っていたものでもあった。 玄奘はインド旅行の途上、特に中央アジアにおける聖遺物・遺骨崇拝に強い関心を示し、 また自身の観仏体験を伝記などに残している(57)。 そのような玄奘が、ナーランダ寺院の東にある伊爛拏鉢伐多国への途上にあった迦布徳(迦)(カポータカ)伽藍の南の観音霊場に 巡礼した説話が、『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』巻三に見られる。 この説話は、観音の観仏体験や五姓各別など、景戒の観音の夢と共通する要素を持つ点で注目される。

従此復往伊爛拏鉢伐多国。 在路至迦布徳伽藍、伽藍南二三里有孤山、巖巘崇崒灌木蕭森、泉沼澄鮮花卉芬馥、既為勝地霊廟寔繁、感変之奇神異多種。 最中精舍、有刻檀観自在菩薩像、威神特尊、常有数十人、或七日二七日、絶粒断漿請祈諸願、心殷至者、 即見菩薩具相荘厳威光朗曜、従檀像中出、慰喩其人与其所願、如是感見数数有人、以故帰者逾衆。 其供養人恐諸来者坌汚尊儀、去像四面各七歩許、豎木构欄。人来礼拝、皆於欄外、不得近像、所奉香花亦並遥散。 其得花住菩薩手及掛臂者、以為吉祥、以為得願。
法師欲往求請、乃買種種花穿之為鬘、将到像所、至誠礼讃訖向菩薩、跪発三願。
一者於此学已、還帰本国得平安無難者、願花住尊手。
二者所修福慧、願生睹史多宮、事慈氏菩薩。若如意者、願花貫挂尊両臂。
三者聖教称衆生界中有一分無仏性者、玄奘今自疑不知有不。若有仏性修行可成仏者、願花貫挂尊頸項。
語訖以花遥散、咸得如言。既満所求歓喜無量。其傍同礼及守精舍人、見已弾指嗚足言未曾有也。 (大正五〇・二三九下)

この観音像は、『霊異記』にしばしば登場する仏菩薩の像と同様、心から願うことでその姿を現し、 行者の願いをかなえてくれる(傍線部)ということで深い信仰を集めていたという。 玄奘はその観音像に花を投げることで三つの願かけをするのであるが、その二番目が観仏信仰とも関係が深い兜率天往生の願い(上生信仰)であり、 三番目が「自分に仏性があり成仏できるならば、観音の首に花がかかりますように」という、観音の夢と共通する要素を持つ願いであった。 玄奘のように自身の仏性の有無を不安に思う例は、五姓各別説を奉ずる法相宗の僧侶に多く見られたものであろうと想像される。 景戒の観音の夢もまたそのような文脈で理解することが可能であるし、 時代は下るが良遍が実母のために書いたという『法相二巻抄』に見える「問云、五性各別ノ義ニ付テ、我ガ身モ定性無性ニテモヤ有ルラン。 サラバ浄土菩提ヲ願テモ由無」(58)という文句で始まる問答も、 やはりこのような宗教的な不安を前提としたものだったのではないだろうか。

3.4 『勧発菩提心集』所引の菩薩戒文献

次に、法相宗第二祖とされ、先に見た仏性論争においても大きな役割を果たした慧沼の『勧発菩提心集』を見てみよう。 この文献は、その名の通り発菩提心に関する諸経論を集めた引用集なのであるが、 この中に「大唐三蔵法師伝西域正法蔵受菩薩戒法」と題された一節がある。 これは叡尊『勧発菩提心集流壅記』に、

三聚浄戒標門中、済恩寺本表紙曰「大唐三蔵法師玄奘伝西域正法蔵等受菩薩戒法、大乗基録五紙」。 承暦四年七月以件本勘校、其義是同、而支少異。 件別行本従長誉院奉請之。権律師永超親校。(日蔵六七・三五六上)

と述べられている通り、元々叡尊が持っていた本では「三聚浄戒標門」と題されていたが、 「済恩寺本」なる別系統の写本によってこれが慈恩大師基が記録した一書ということがわかったようである。 これを素朴に受け取れば、玄奘三蔵がインド乃至中央アジアから伝えた菩薩戒の受戒方法を基が記録し、 慧沼がそれを『勧発菩提心集』の一節として引用した、ということになるだろう。 玄奘や基が本当にこのような文献を残したのかどうか、という点ももちろん興味深いが、 本稿の目的に即せばとりあえず日本において右のような伝承が(遅くとも叡尊の頃には)存在していた、ということが確認できればよい。

さて、この「大唐三蔵法師伝西域正法蔵受菩薩戒法」には、 受戒の際の懺悔と菩薩種姓の必要性、そして受戒の際の観仏体験(受戒者と、受戒を証明するために姿を現した諸仏との対話)が記されており、 注目される。この中、観仏体験は次のようなものである。

次当為說三品心受戒、於十方諸仏所、有三品相現。 或涼風、或妙香、或異声、或光明等、種種相現。 彼諸菩薩各各問仏「何因緣故有此相現」。 彼仏各答云「於某方処索訶世界、在某処所、有某甲衆多菩薩、於某甲師所、說受菩薩戒。今証明所以有此三品相現」。 彼彼菩薩咸生歓喜。各各皆言「於如是等極悪処所、如此具足雑染煩悩悪業有情、能発如是極勝之心、受菩薩戒、甚為希有。 深生憐愍、於汝等所、起同梵行心。是故汝等宜応至心護持浄戒、不惜身命而勿毀犯」。(大正四五・三九七上)

傍線を引いた「或涼風、或妙香、或異声、或光明等」によって諸仏の相を現す、という部分は、 仏菩薩を目の当たりにする神秘体験というよりは、徴表による儀礼的な疑似観仏体験が実践されていたことを予想させる記述である(補注1)。 また先に『勧発菩提心集』は引用集であると述べたが、「弟子某甲が○×と述べる」のように具体的な所作に関する引用においては、 より具体性を持たせるような独自の改変が見られる(59)。 これらのことから『勧発菩提心集』の実践マニュアル的色彩が読み取ることができよう。

加えて、観音の夢に関連して言えば、次の一文が注目される。

是故仏子応受応持。若有持者、従初発心乃至妙覚、随縁施化。若有衆生感真法者、現菩薩形而往度之。 若感応者、現優婆塞形而往度之如観音等大正四五・三八八中)

これは恐らく『浄行優婆塞戒経』(散逸)(60)の引用の一部と思われる。 逸文であるため正確に文脈を捉えることが難しいが、前後の引用が菩薩戒の受戒に関することなので、 これも菩提心を発し菩薩戒を受けた優婆塞が菩薩行として衆生を教化する様を述べている箇所なのであろうと思われる。 この教化の際、この優婆塞=菩薩は「真法を感じた衆生」に対しては菩薩の姿で現れ、 もし感応すれば「優婆塞の形」で現れるのだが、これが「観音等の如し」であるというのである。 この「観音等の如し」の部分は割注であるため、『浄行優婆塞戒経』に元々あった文なのか慧沼以降の伝写における挿入なのかはわからないが、 いずれにせよこの記述は菩薩戒の文脈において観音に言及される例として注目される。 叡尊が重視していたとは言え、景戒の時代にどの程度この文献の内容が知られていたかは不明であるが、 観音の夢において鏡日=観音という解釈を生んだ可能性の一つとして指摘しておきたい。

4. まとめ

以上、唯識派/法相宗の思想を中心に、景戒が観音の夢を解釈する際に材料となった可能性の高いものをいくつか列挙し、考察してみた。 冒頭で述べたように、本稿で行なった作業は、観音の夢の「可能態」を検討する途上のものであって、 従来の研究が明らかにしてきた様々な説話の要素を否定するためにしているものではない。 右に引いた経論が観音の夢の直接の典拠であると断定することはできないが、 東アジアの唯識学派・法相宗においては、菩薩戒を含めた幅広い入門の実践のなかで、 特に自身の素質=種姓を入門者が自覚するという場面で悔過や観仏体験が実践されてきたこと、 そして観仏体験の場面に観音菩薩が登場することもあり得る、ということを示すことはできたと思う。 従来の研究では、観音の夢を表相思想との関連で未来のことについての前兆と解釈する説が多いが、 この菩薩戒的な枠組みを重視するならば、この「聖示」は菩薩戒の受戒を認めたことを観音菩薩自らが姿を現すことで示したということ、 換言すれば景戒が廻心向大(小乗から大乗への改宗)をして大乗の菩薩となったことを観音菩薩が認めたと解釈することも可能である。 さらに、後の「伝灯住位を得る」という記述を踏まえれば、個人的な夢解きが公的な制度によって裏付けられた、 というような景戒の意識も読み取れよう。

加えて確認しておかなければならないのは、このような菩薩戒の受戒にも似た「聖示」が、 景戒が正式な具足戒を受ける前だったのか後だったのか、という点であろう。 従来の研究では、「俗家に居て妻子を蓄ふ」とある点や、夢の解釈で「「慙愧づ」は、鬢髮を剃除り袈裟を披著るなり」とあることから、 受戒前だとする見解が多い。 しかし、出雲路修氏が「妻子の有無と私度か否かということとは無関係」(61)と 述べており、また夢の解釈でも、

「我れ身を受くることただし五尺余のみ有り」とは、「五尺」は、五趣の因果なり。「余」は不定姓の、心を廻して大に向くなり。

と述べている点に注目すれば、小乗から大乗への転向後、 小乗の戒律である具足戒を受けるというのは不自然であろう(62)。 したがって、すでに具足戒を何らかの形でうけていた景戒が、観音の夢をきっかけに大乗への転向を確信した、 というのが穏当な解釈のように思われる。

また少数の例ではあったが、観音の夢だけでなく、『霊異記』の他の箇所でも、法相宗の思想や論争史的な状況が背景にあることを 示すことができたと思う。これらの例から、『霊異記』というテクストが宗教的実践の伝統によって裏付けられているというだけでなく、 北條勝貴氏の言うように『日本書記』や『延暦僧録』に対抗しようとした仏教史叙述の実践だったと位置づけることが 可能になるかもしれない(63)。 今後はこの可能性を検討することが、『霊異記』研究の課題のひとつとなってくるのではなかろうか。 少なくとも『霊異記』が「人々の仏教信仰のあり方も、当時の実体を直接反映している」とする従来の考え方については、 再検討する必要があるだろう。

さらに言えば、唯識思想や法相教学というものを八識説や三性説といったものだけに限定して『霊異記』を読み解こうとしても、 あるいは「一切衆生悉有仏性」こそが(日本)仏教だという先入観に縛られていても、景戒の言説を理解することはできないだろうと思う。 観仏信仰をはじめとするインド以来の唯識派、東アジアの法相宗の人々が有していた豊かな宗教的世界を理解することで、 従来「学問仏教」とよばれ矮小化されてきた(64)法相宗の思想や宗教性を 再評価できるようになるのではないだろうか。『霊異記』はその意味でも、格好の材料であると言えるだろう。

謝辞

本稿は、花園大学特別個人研究費(二〇〇七年度)による成果の一部である。 また、本稿の準備のための口頭発表(佛教史学会例会〔二〇〇六年一月、龍谷大学〕、東アジア仏教研究会大会〔二〇〇六年十二月、駒澤大学〕、 南都文化研究組織シンポジウム〔二〇〇七年三月、 元興寺文化財研究所〕等)に対して、多数のコメントを頂いた。記して感謝申し上げる。


脚注

  1. 以下、書き下し等の引用は出雲路修『日本霊異記』(新日本古典文学大系三〇、岩波書店、一九九六年)、一九〇〜一九三頁に基づく。
  2. 中村史『『日本霊異記』と唱導』(三弥井書店、一九九五年)など。
  3. 寺川眞知夫『日本国現報善悪霊異記の研究』(和泉書院、一九九六年)など。
  4. 多田一臣「古代の夢 『日本霊異記』を中心に」(『文学』九・十月号、二〇〇五年)など。
  5. 丸山顯徳『日本霊異記説話の研究』(桜楓社、一九九二年)など。
  6. 中村生雄「景戒の回心と『日本霊異記』」(『文学』四八、一九八〇年)など。
  7. 以下、論述の便宜上「五姓各別説」という用語によって、インドから日本にいたる多様な議論を一括している。「法相宗」なども同様である。
  8. 菊池良一「『霊異記』下巻第三十八話について」(『国文学 解釈と教材の研究』十三・十、一九六八年)。
  9. 寺川前掲書『日本国現報善悪霊異記の研究』
  10. 吉田一彦「『日本霊異記』の資料的価値」(小峰和明・篠川賢編『日本霊異記を読む』〔吉川弘文館、二〇〇四年〕)、笹生衛「考古学から見た『日本霊異記』―東国の仏教関連遺跡の動向から―」(『歴史評論』六六八、二〇〇五年)など。
  11. 吉田一彦『古代仏教をよみなおす』(吉川弘文館、二〇〇六年)、三四頁・二〇五頁。同氏の「史料としての『日本霊異記』」(新日本古典文学大系『日本霊異記』月報〔岩波書店、一九九六年〕)および前掲論文「『日本霊異記』の資料的価値」も参照。
  12. これに関連して上川通夫氏は「「民間仏教」論の中心的根拠たる『日本霊異記』の資料的性格は、根本的に再考すべき段階を迎えたと思う。民衆に対する仏教信仰への政策的誘導策を企てる国家の立場で、この唱導説話が編まれた可能性がある」と述べており注目されるが(「古代」『日本仏教の研究法―歴史と展望』〔法蔵館、二〇〇〇年〕、二三頁)、「民間仏教」と「国家仏教」を二項対立的に実体視している点では、「根本的に再考」しているとは言えないのではないだろうか。
  13. 北條勝貴「説話の可能態」(『歴史評論』六六八、二〇〇五年)。
  14. 志田諄一『日本霊異記とその社会』(雄山閣、一九七五年)。
  15. 太田久紀「日本唯識研究 空教の位置づけ」(『駒澤大学仏教学部論集』三、一九七三年)、同「日本唯識研究 他教学とのかかわり」(『印度学仏教学研究』二八・一〔五五〕、一九七九年)、平井俊榮「平安初期における三論・法相角逐をめぐる諸問題」(『駒澤大学仏教学部研究紀要』三七、一九七九年)、松本信道「『大仏頂経』の真偽論争と南都六宗の動向」(『駒沢史学』三三、一九八五年)、同「『延暦僧録』戒明伝の資料的特質」(『駒沢史学』三七、一九八七年)、同「三論・法相対立の始源とその背景 清弁の『掌珍論』受容をめぐって」(『三論教学の研究』、春秋社、一九九〇年)、同「空有論争の日本的展開」(『駒澤大学文学部研究紀要』四九、一九九一年)、同「大安寺三論学の特質 道慈・慶俊・戒明を中心として」(『古代史論叢』、続群書類従完成会、一九九四年)、師茂樹「慈蘊『法相髄脳』の復原と解釈」(『東洋大学大学院紀要』三五、一九九九年)、同“Chikō's Criticism of the Hossō Sect, and Wŏnhyo's Influence.”(『印度学仏教学研究』五〇・二〔一〇〇〕、二〇〇二年)、同“Criticism of the Hossō Theory in Girin Quoted by Saichō: Especially with Relation to Wŏnhyo and Ŭijŏk”(『印度学仏教学研究』五一・二〔一〇二〕、二〇〇三年)、同「相部律宗定賓の行状・思想とその日本への影響 『四分律疏飾宗義記』に見える仏身論を中心に」(『戒律文化』二、二〇〇三年)、同「清辨の比量をめぐる諸師の解釈 『唯識分量決』を中心に」(『한극불교학결집대회논집』二・一、二〇〇四年)、同「清辨比量の東アジアにおける受容」(『불교학연구』八、二〇〇四年)、同「楞厳経惟慤疏の逸文をめぐる二、三の問題」(『禪學研究』特別号、二〇〇五年)など。
  16. 井上薫『日本古代の政治と宗教』(吉川弘文館、一九六一年)。
  17. 『大乗三論大義鈔』巻三(大正七〇・一五一中)。時期については松本前掲論文「三論・法相対立の始源とその背景」
  18. 序文に「自志学至于天平勝宝四年合三十箇年」(大正五七・三下)とあるのに基づく。
  19. 出雲路前掲書『日本霊異記』、三一六頁。
  20. 「延暦一七年九月壬戌詔」(『類聚国史』巻一七九・仏道部六〔『新訂増補国史体系』六〕、二三七頁)。
  21. 「延暦二〇年四月丙午」(『類聚国史』巻一八七・仏道部十四〔『新訂増補国史体系』六〕、三一四頁)。
  22. 「延暦二一年正月庚午勅」(『類聚国史』巻一八七・仏道部十四〔『新訂増補国史体系』六〕、二一六頁)、太政官符「応正月御斎会及維摩等会均請六宗学僧事」(『類聚三代格』二〔『新訂増補国史体系』二五〕、五五頁)。
  23. 「延暦二二年正月戊寅勅」(『類聚国史』一七九・仏道部六〔『新訂増補国史体系』六〕、二三七頁)。
  24. 「延暦二三年正月癸未勅」(『類聚国史』巻一七九・仏道部六〔『新訂増補国史体系』六〕、二三八頁)。
  25. 「故贈僧正勤操大徳影讃并序」(『性霊集』十)。
  26. 薗田香融「最澄とその思想」(日本思想大系四『最澄』、岩波書店、一九七四年。原典日本仏教の思想二『最澄』、一九九一年)。
  27. 出雲路前掲書『日本霊異記』、三一九頁。
  28. 平井前掲論文「平安初期における三論・法相角逐をめぐる諸問題」
  29. 従来、三論宗は一乗であるから法相宗と対立するのだ、というような単純な図式で語られることもあったが、それほど単純ではないことは、吉蔵と慈恩大師基のテキストに見られる共通性を指摘した末光愛正氏の一連の研究(「吉蔵の成仏不成仏観」〔『駒沢大学仏教学部研究紀要』四五、一九八七〕〜「同(十)」〔『駒沢大学仏教学部研究紀要』五〇、一九九二〕)からもわかる。
  30. 「此三教次第、如智光論師般若灯論釈、具引蘇若那摩訶衍経。此云大乗妙智経、此昔所未聞也。先摂機者、初時唯摂二乗人機、第二通摂大小二機。以此宗計一分二乗不向仏果。三唯摂菩薩、通於漸・頓、以諸二乗悉向仏果無異路故。二約教者、初唯摂小乗、次通三乗、後唯一乗。」(大正三五・一一二上)
  31. 松本前掲論文「大安寺三論学の特質」等。
  32. 源信『一乗要決』にも『一乗仏性究竟論補闕』の同様の引用がある(大正七四・三四九下)。
  33. 管見の範囲では、唯一の例外として見登『大乗起信論同異略集』をあげることができる(『韓国仏教全書』三・六九一〜六九二)。ただし、崔鈆植氏によれば、見登は来日して『大乗起信論同異略集』を書いた可能性が高いとのことであり(崔鈆植「『大乗起信論同異略集』の著者について」、『駒澤短期大学仏教論集』七、二〇〇一年)、『大仏頂経』との関わりから見ても、崔氏の説は首肯しうる。
  34. 正倉院文書の「厨子絵像并画師目録」に「第三厨子 三論宗 秦堅魚 梵天 琉璃光菩薩 文殊師利菩薩 維摩詰菩薩居士形 師子吼菩薩 帝釈 増長天王 広目天王 清辨菩薩僧劣 分別明菩薩僧壮 提婆菩薩僧老 龍樹菩薩僧大老 須菩提僧壮 常啼菩薩僧中 多聞天王 持国天王」(石田茂作『写経より見たる奈良朝仏教の研究』〔東洋文庫、一九三〇年〕、七一頁)とある。ただし分別明菩薩は清弁の異名とされる場合がある(江島恵教『中観思想の展開 ―Bhāvaviveka研究―』〔春秋社、一九八〇年〕、三頁)ので注意が必要。一方『東大寺六宗未決義』には「大仏頂経疏分別明菩薩」(『日仏全』二九・二中)とあり、清弁に『大仏頂経』の注釈書があると考えられていた可能性もある。
  35. 師前掲論文「相部律宗定賓の行状・思想とその日本への影響」参照。
  36. 佐伯有清『伝教大師伝の研究』(吉川弘文館、一九九二年)、二七三頁。
  37. 小泉道『日本霊異記』(新潮日本古典集成、新潮社、一九八四年)、三〇七頁・頭注十六。
  38. 寺川前掲書『日本国現報善悪霊異記の研究』、四六一頁。
  39. 寺川前掲書『日本国現報善悪霊異記の研究』、四六一頁。
  40. 水野敬三郎『【カラー版】日本仏像史』(美術出版社、二〇〇一年)、四七頁。
  41. 寺川前掲書『日本国現報善悪霊異記の研究』、四五二頁。
  42. 三時教判に対する誤解については、師前掲論文「慈蘊『法相髄脳』の復原と解釈」、原田信之『今昔物語集南都成立と唯識学』(勉誠出版、二〇〇五年)等参照。
  43. 師茂樹「法相宗の「一乗方便」説再考 ―諸乗義林を中心に―」(『印度学仏教学研究』四七・一〔九三〕、一九九八年)。
  44. これに関連して丸山顯徳氏が、『霊異記』に登場する紀伊国の寺院に渡来人や弥勒信仰に関わるものが多いことや、下巻序文末に「天上の宝堂(=兜率天宮)に住まむとねがふ」という弥勒上生信仰的に関わる表現を引きつつ、景戒の弥勒信仰について指摘している点、さらにはこの弥勒信仰が下巻序文に見える「末法に入れり」という意識と結びついていたことも指摘していること(前掲書『日本霊異記説話の研究』、三二一〜三三三頁)は重要であろう。『摂大乗論』等の執筆において無著が弥勒に会って書いた、という話は有名であるが、後の玄奘の例からもわかるように上生信仰は唯識派に共通する信仰だったとも言えよう。
  45. 別の箇所(大正四三・六一〇中)では、『善戒経』と並べて異訳の『菩薩持地経』もあげている。
  46. この点について常盤大定氏は「「法華」そのものゝ中より、定性・無性の証を求めたるは奇なり」(『佛性の研究』〔丙午出版、一九三〇年。再刊、国書刊行会、一九七三年〕、五七二〜五七三頁)と述べるが、本文中でも述べたように法相教学における常套手段である。
  47. 常盤前掲書『佛性の研究』参照。日本における批判の例として最澄『通六九証破比量文』(伝全二)をあげておく。
  48. 西郷信綱氏の『古代人と夢』の影響が強いのか、夢について仏教的な文脈を軽視する傾向があるように思われる。例えば丸山顯徳氏は、唯識思想において夢が虚妄なものであると位置づけられていることを指摘した上で、「景戒の夢の理解は、唯識哲学からきた理解とはまったく異なる見解であると言わなくてはならない。景戒は夢にたいして潜在する力を認めている。夢に前兆を感じているというのは、古代的な呪術的な信仰によるものである」(『古代文学と琉球説話』〔三弥井書店、二〇〇五年〕、三九四頁。)と述べている。石井公成「行為としての信と夢見―『日本霊異記』中巻第十三を手がかりとして―」(『駒澤大学仏教文学研究』五、二〇〇二年)は実践としての夢見に注目している点で極めて重要であるが、その石井氏もまた「こうした考えと、すべては心が作り出したものであるという唯識の思想とがどのように関係づけられるかは重要な問題だが、景戒はそうした点には興味は持っていなかったように見える」と述べている。しかし、山部能宜氏が定中見仏よりも夢中見仏の方が「古い伝承の形を保っているようである」(「『梵網経』における好相行の研究 ―特に禅観経典との関連性に注目して―」(『北朝隋唐中国仏教思想史』、法蔵館、二〇〇〇年)と述べ、稲城正己氏が「「夢」は、一時的だが人間の通常の認識作用が低下している状態だから欲望の作用が弱く、通常の状態よりも正しい認識(それは仏・菩薩・神の姿や言葉として現れてくる)に近づくことができる」(「歴史学とテクスト分析 〈事実〉と〈フィクション性〉」〔『日本史の脱領域』、森話社、二〇〇三年〕)と述べているように、夢の方が虚妄ではないという解釈も成り立ちうる。観音の夢を含む『霊異記』中の夢全般を分析した榊原史子氏も「夢は、現実生活においては出会うことのできない神仏や故人と接触し、メッセージを受信する場であった。また、未来に起こる事柄を知らせる前兆でもあった」と積極的に評価している(「『日本霊異記』と夢」〔前掲書『日本霊異記を読む』〕、六六頁)。
  49. Nobuyoshi Yamabe. The Sūtra on the Ocean-Like Samādhi of the Visualization of the Buddha: The Interfusion of the Chinese and Indian Cultures in Central Asia as Reflected in a Fifth Century Apocryphal Sūtra. Ph.D. thesis, Yale University, 1999. 同前掲論文「『梵網経』における好相行の研究」など。
  50. 中村史氏は、『霊異記』の一部の説話が梵網戒に関する法会などで説かれていた可能性を指摘する(前掲書『『日本霊異記』と唱導』)。
  51. 山部前掲論文「『梵網経』における好相行の研究」、二二六頁。
  52. 名畑崇「日本古代の戒律受容―善珠『本願薬師経鈔』をめぐって―」(『戒律思想の研究』〔平楽寺書店、一九八一年〕。『論集奈良仏教3 奈良時代の僧侶と社会』〔雄山閣、一九九四年〕)
  53. 名畑前掲論文「日本古代の戒律受容」、山口敦史「古代前期・仏典注釈の世界 善珠撰述経疏の言説を中心に」(『祭儀と言説―生成の〈現場〉へ』〔森話社、一九九九年〕)。
  54. なお、『続日本紀』天平勝宝元(七四九)年の行基卒伝には行基が「随器誘導、咸趣于善」という教化をしていたとあり、『霊異記』との共通性が見られる(もっとも「随器」という表現は慣用的なものとも言えるが)。
  55. 原田行造「景戒の思想と生活環境」(『日本霊異記』、古代の文学第四巻、早稲田大学出版部、一九七七年)、二八二頁。
  56. 丸山前掲書『日本霊異記説話の研究』、三三七頁。
  57. 桑山正進氏は中央アジアにおけるこのような聖遺物・遺骨崇拝について、「玄奘当時まで一貫して反思索・反抽象の当地にあっては、玄奘が中国でしきりに求めたものがあるはずはない」(桑山正進「玄奘三蔵の形而下」〔『人物中国の仏教 玄奘』、大蔵出版、一九八一年〕、一一四頁)と述べているが、これも唯識思想を主知的、学問的に捉えてきた近代仏教学のバイアスによるものであろう。Yogācāraの体験主義的傾向については、袴谷憲昭・荒井裕明『大乗荘厳経論』(新国訳大蔵経瑜伽・唯識部第十二巻、大蔵出版、一九九三年)中の袴谷憲昭氏による解題を参照。
  58. 横山紘一『唯識とは何か―『法相二巻抄』を読む』(春秋社、一九八六年)、三三五頁。
  59. 例えば大正四五・三八七中から始まる『瓔珞経』の引用など。
  60. 『開元釈教録』巻十八(大正五五・六七三上)等は偽経と見なしているが、慧沼『金光明最勝王経疏』巻四には引用されている(大正三九・二八五上、中)。藤谷昌紀「『瓔珞経』と蕭子良の『浄行優婆塞経』」(『印度学仏教学研究』五三・一〔一〇五〕、二〇〇四年)も参照。
  61. 出雲路前掲書『日本霊異記』、一九一頁・脚注十二。
  62. これに関して、観音の夢の冒頭で自身を「僧景戒」と述べている点も注目される。ただしこれは、作者の立場での自称であり、延暦六年時点での肩書きではない可能性がある。
  63. この仮説は、佛教史学会二〇〇六年一月に本論文の元となる報告を行った際に、報告後の議論の中で北條勝貴氏が提唱されたものである。
  64. 拙稿「唐代仏教における社会事業 ―慧沼とその弟子による架橋―」(『花園大学文学部研究紀要』三五、二〇〇三年)や「「私」を書き残すために ―松本史朗「縁起について」の可能性―」(『GYRATIVA』三、二〇〇四年)参照。

補注

以下の補注は論文が出た後のもの。

  1. 『勧発菩提心集』の「或涼風、或妙香、或異声、或光明等、種種相現」が、 『菩薩善戒経』『菩薩地持経』『瑜伽師地論』等に関連している可能性がある、 というご指摘を山部能宜氏より頂いた。感謝申し上げます。関連箇所を引用しておく。 「爾時諸方有涼風起、智者當知十方諸佛諸菩薩僧、施是人戒已語受者言、某甲諦聽…」(大正30, 1014b)。 「如是受菩薩戒竟。次第十方一切世界無量諸佛、及住大地諸菩薩前、法有相現」(大正30, 912c)。 「如是受戒羯磨畢竟。從此無間普於十方無邊無際諸世界中現住諸佛已入大地諸菩薩前、法爾相現」(大正30, 514c)。


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