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以下のテキストは、『禪學研究』特別号、2005年7月、pp. 221-234に掲載された論文の提出原稿をHTML化したものです。 実際に掲載されたものと異なる場合があると思いますが、ご了承ください。


楞厳経惟慤疏の逸文をめぐる二、三の問題 このエントリーを含むはてなブックマーク

師 茂樹(花園大学

問題の所在

『楞厳経』の成立問題と惟慤疏

『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』(以下『楞厳経』)は、唐代中期に中国で成立したとされ、 これまでその思想内容とあわせて、成立の問題についても大きな関心が払われてきた。

その中のいくつかを見てみると、古くは常盤大定氏が、『楞厳経』を偽作した可能性のある人物として、

  1. 証訳者懐迪
  2. 筆受者房融
  3. 最初の注釈者惟慤☆1

の三人をあげるが、懐迪については「有力な疑問の人」なるも「本経を結集する手腕ありしや否や」と判断を避け、 房融については「到底此の椽大の筆力ありとは思はれぬ」、 惟慤については懐迪と同じく「有力な疑問の人」とするも 「年代が五十年も後るゝ惟慤を擬する事は出来ぬ」とそれぞれ評価している☆2

また、長部和雄氏は、「この経文十巻全部が一時に一人の訳撰述者の手によって今日の形態にまとめられたものではない」という見解を述べ、 巻七のみが般刺蜜帝の訳、それ以外は「誰の手になったか知る由もないが」段階的に増補され (例えば巻三・四・六については『臨済録』に引用があることから9世紀中葉までの成立とする等)、 宋代にいたって現在の十巻本の体裁になったとする☆3

近年、崔昌植氏は、氏が最古とする『楞厳経』の敦煌写本に注目し、 「敦煌本の資料の上から見ると、今までの『楞厳経』に関する伝訳の記事等は、 『開元録』の記事も『続図紀』の記事もすべて嘘というのが判明された」☆4と述べているが、 その人物に関しては「独覚の類」☆5と明言は避けている。

いずれの研究でも誰がこの経典の成立に関わったのか、という最終的な判断は下せていないというのが現状であるが、 それは言うまでもなく成立当時の資料不足という点が大きい。 しかしながら、成立問題とも深く関わっている可能性が指摘されている惟慤をはじめとして、 唐代の注釈書についてはこれまであまり検討されたわけではないようである。 本稿では、現在知られている『楞厳経』の唐代の注釈書のうち、最初のものとされる惟慤の注釈書について、 その逸文に関する若干の問題点を考察したいと思う。

惟慤疏について

惟慤の伝記は『宋高僧伝』に収録されており、『楞厳経』に関する記事もそこに見ることができる。

(1)釋惟慤、俗姓連氏、齊大夫稱之後、本憑翊人、官居上黨為潞人也。九歳割愛冠年納戒、母氏昆弟歸于法門、故愨從其受教。 (中略)乃辭渭陽、尋師隸業、或經筵首席、或論集前驅、或參問禪宗、或附麗律匠。(中略)
(2)年臨不惑、尚住神都、因受舊相房公融宅請。未飯之前、宅中出經函云、相公在南海知南銓、預其翻經、躬親筆受首楞嚴經一部、留家供養、 今筵中正有十僧、毎人可開題一卷。慤坐居第四、舒經見富樓那問生起義、覺其文婉其理玄
(3)發願撰疏、疏通經義、及歸院矢誓寫文殊菩薩像、別誦名號計一十年、厥志堅強遂有冥感、忽夢妙吉祥乘狻猊、自慤之口入。 由茲下筆、若大覺之被善現談般若焉。起大暦元年丙午也。及將徹簡、於臥寐中見由口而出。在乎華嚴宗中、文殊智也。 勒成三卷、自謂從淺智中衍出矣。于今盛行。
(4)一説楞嚴經、初是荊州度門寺神秀禪師在内時得本、後因館陶沙門慧震於度門寺傳出、慤遇之著疏解之。 後有弘沇法師者、蜀人也、作義章開釋此經、號資中疏。其中亦引震法師義例、似有今古之説、此岷蜀行之、 近亦流江表焉。☆6

(1)は惟慤の出自について述べた部分であるが、上黨(山西省)の人で、はじめは仏法を母方の叔伯父(母氏昆弟)で学んだが、 やがてそこから離れ、師を尋ねて経・論・禅・律を学び歩いたと言う(下線部)。 下線部の記事では場所が不明であるが、後に見るように、惟慤が『円覚経』と関係が深く、宗密から重視されていることから考えると、 律を重んずる禅宗が多く活動していた☆7四川省周辺であった可能性も考えられる。

次に(2)は房融より『楞厳経』を渡されるという(これまで何度も問題視されてきた)場面であるが、 下線部にあるようにその場には惟慤を含め十人の僧がおり、各僧に一巻ずつ(惟慤は第四巻)の「開題」を担当させたという (この十人という数字は脚色である可能性が高そうであるが、 従来の成立問題では論じてこられなかった集団による偽造という観点を提示してくれるものとして興味深い)。 その後(3)にあるように、文殊菩薩の像と感応して、 自分の能力では書けないような☆8内容の三巻の疏を書き上げ、 それは広く読まれるようになったと言う。 (4)には別の説として、神秀→慧震→惟慤→弘沇と伝わった経緯が説かれている。

ここで注意しておきたいのは、惟慤の疏の巻数である。『新編諸宗教蔵総録』には、

首楞嚴經
玄贊二十卷全寫經文隨科贊釋與六卷本大同
玄贊六卷標舉科節者略經文或三卷 已上 惟慤述☆9

とあり、経文を写さない六巻(=三巻)本と、経文をすべて写した二十巻本とがあって、両者は「大同」、 裏を返せば微妙に異なる部分があると記されている。最澄『依憑天台集』を見ると、

大唐大薦福寺大仏頂宗沙門惟懿、引天台疏、造経疏并鈔☆10

としており、ここでも「疏」と「鈔」という二つの本が存在するかのような表現をしている。 「~玄賛」を「~疏」と呼ぶ例は多いので、同一のものであると考えても大過はなかろうが、「鈔」については、 例えば宗密の『円覚経大疏』に対する注釈を『円覚経大疏鈔』と呼ぶような例もあることから、 単に経文を追加しただけのものではない可能性もあろう(ただしこの後に最澄が引用するのは「大仏頂経疏鈔上巻」のみである。 したがって、「鈔」が上の二十巻本には当たらないことは「上巻」という表現からわかる)。 本稿ではこのようなことをふまえて「惟慤疏」という曖昧な呼称をあえて用いることとする。

さて、惟慤疏の逸文については、宋代以降のものを中心に、すでにいくつか指摘されている☆11。 もっとも広範囲なものとしては、宋代の可度による『楞厳経箋』であり、科段を分けるのに惟慤疏を用いている。 ここに引用された惟慤疏の逸文は、数文字程度の短いものがほとんどであるが、経全体に及んでいる (したがって、長部和雄氏が言う段階成立説がもし正しいとしても、経典成立後50年程度の期間しかない)。 しかし、『楞厳経』全十巻の注釈書が『述記』では三巻本になっていることを考えると、 その内容は非常にコンパクトであることが予想されるから、 この『楞厳経箋』の逸文が原文のかなりの範囲をカバーしていると考えることもできる。

本稿では、これまで指摘されてこなかった逸文について、『楞厳経箋』の逸文を手がかりに発見し得たものをいくつか紹介するとともに、 それに因む若干の問題点を指摘したい。

宗密の円覚経疏と惟慤疏

宗密と惟慤との関係は早くから指摘されている。 鎌田茂雄氏によれば、宗密は惟慤が『円覚経』の注釈書を著わしたことを伝え、それを「もっとも高く評価し」、 「諸注釈のなかで、もっとも多く引用」しているという☆12

宗密が惟慤の円覚経疏だけではなく『楞厳経』の注釈書も引用していることは、

疏若約下、二據實釋也。此是佛頂慤疏所説也。☆13
慤法師佛頂疏中、亦特開一門、尅明真妄十徴答、如別卷引。☆14

などの表現から推測される。しかし、 このように書名を明示している例以外に書名を明示せず惟慤疏を引用していると思われる箇所がある☆15。 一例をあげれば、宗密『円覚経大疏鈔』巻七之上に『楞厳経』の偈☆16を引くが、 そこには以下のような割注が付されている(以下の引用文では小さい字の部分)。

聞非自然生。因聲有名字。旋聞與聲脱。能脱欲誰名。一根既返源。六根成解脱。 旋聞〔音〕脱也。此雖非所引。要之生起文意
見聞如幻翳。三界若空華。聞復翳根除。云云 次五句兼此一句即疏中是也。次下云
摩登伽在夢。誰能留汝形。了喻超塵也☆17

これは、『楞厳経箋』の次の箇所に引かれている惟慤疏からの引用と思われる(なお、可度による「箋」はすべて省略)。

聞非自然生
 (略)
因聲有名字
 (略)
旎聞與聲脱
 三指觀令超文三。初旋聞普脱(略)
能脱欲誰名
 (略)
一根既返源。六根成解脱。見聞如幻翳
 (略)
三界若空花
 (略)
聞復翳根除
 (略)
塵銷覺圓淨
 (略)
淨極光通達
 次了喻超塵(略)
寂照含虚空
 (略)
却來觀世間。猶如夢中事
 (略)
摩登伽在夢
 (略)
誰能留汝形
 (略) ☆18

上下の引用の下線部を対照すれば、宗密が『楞厳経』を引用する際に惟慤疏を参考にしていたことがわかるだろう。 この用例から考えるに、宗密の著作の他の箇所でも、同様に惟慤疏を引用している可能性がある。 あるいは、これまで『円覚経』の注釈書と見なされてきた引用文が実は『楞厳経』に対するものであったという可能性も考えられよう。 いずれにせよ、宗密の引用態度については、今後十分な注意を払う必要があろう。

日本上代における『楞厳経』の受容

三論宗と『楞厳経』

ところで、これまであまり注意されてこなかったことであるが、 奈良~平安初期の所謂空有の論争☆19において 『楞厳経』☆20の真偽が大きな思想史的問題となっており、 それにともなって惟慤疏にも強い関心がもたれていた点は看過できない。 ことの発端は、一切皆空を証明しようとし法相宗に強く批判された清辨の比量と、 『楞厳経』巻五冒頭の偈頌(下に引用)が、ほぼ同じであったことによる☆21

真性有為空  縁生故如幻
無為無起滅  不実如空花☆22

清辨を擁護することで一向空を主張したい三論宗としてはこの経文を経証とし、一方、非空非有中道教を了義とし、 宗祖が清辨を批判している法相宗側としては、『楞厳経』の偽経説を出すことで三論宗の主張を崩そうとしたのである。 ここで、先学の諸研究☆23に従ってこの論争の流れをまとめると、下のようになる。

養老2(718)道慈帰朝(『楞厳経』伝来?)。
養老4(720)『日本書紀』成立(『楞厳経』に基づく道慈による潤色)。
天平8(736)中臣名代帰朝(『楞厳経』再請来)。
この頃、最初の論争(三論・法相の僧を請集し『楞厳経』の真偽について「検考」する)。
天平17(745)中臣名代没。
天平勝宝5(753)鑑真来日。
宝亀3(772)戒明、徳清の入唐。
宝亀7(776)『東大寺六宗未決義』申上(『楞厳経』の真偽についての記述あり)。
宝亀10(779)諸僧都等が大安寺に集まり、『楞厳経』が偽経であると主張、戒明が連署を拒否。 思託、大仏頂行道。

上の年表からもわかるように、この論争は天平・宝亀と二回の大きな盛り上がりがあるが、このあたりの事情については、 時代は下るが以下に引いた玄叡(~840)『大乘三論大義鈔』(830)の記述が、惟慤疏も引いており参考になる。

問。若爾既是佛經之量、何故唐界基廊等師、敢生衆過。
答。彼宗二傳。一云此是僞造、非眞佛説。一云眞是佛經、然佛經量與清辨量、言同意異、其意異故、論量有過。(中略)
(1)言僞造者、此經本、是先入唐沙門普照法師、所奉請也。經本東流、衆師競諍、則於奈樂宮御寓勝寶感神聖武皇帝御代仲臣等、 請集三論法相法師等、而使撿考。兩宗法師相勘云「是眞佛經、掌珍比量與經量同、不可謗毀」等、論定竟。即以奏聞、奉勅依奏已畢。
(2)然寶龜年中、使徳清法師等、遣唐檢之。徳清法師、承大唐法詳居士云「大佛頂經、是房融之僞造、非眞佛經也。智昇未詳謬、編正録」。 然彼法詳所出僞經之由、甚可笑也。恐繁不述。徳清法師、效詳士妄、而泥犁語亦傳本朝、可傷之深矣。
(3)今案、唐大興福寺惟愨法師疏云「唐神龍元年五月二十三日、中印度沙門般刺密帝、於廣州制止寺道場、對擧梵本。 烏萇國沙門彌伽釋迦、譯玆梵語。房融筆受」已上 又唐智昇録云「修州沙門懐迪、遊廣左、遇一梵僧、齎梵經一挾、共譯之、勒成十卷、即大佛頂萬行首楞嚴經是也。 迪受筆經旨、兼絹綴文理」已上☆24

まず(1)を見てみると、『楞厳経』が鑑真とともに帰国した普照の将来であること、 そしてその真偽をめぐって三論・法相両宗の間で論争がおこり(このあたり、時間の前後に問題あり)、 その時は「真の仏経」であると決着したこと(ただし、『大乘三論大義鈔』は三論側に立っているので注意)が述べられている。

次に(2)においては、入唐した徳清が、唐の法詳居士なる人物の発言を引いて偽経説を出している。 これに対する反論は「繁を恐れて述べず」とあるのが残念であるが、 玄叡はこの発言に対して惟慤疏と智昇録を引いて反論の根拠としている((3))。 また、この徳清の発言が事実であるならば、唐においても早い時期から偽経説が流れていたことになり、注目される。

この宝亀年間の論争については、徳清と共に入唐した戒明の行動が注目される。

宝亀十年、城中諸僧都集大安寺、連署欲奏廃大仏頂経、云是偽経。令戒明連署、収取大仏頂梵焼。(中略)戒明不敢連署。 唐大暦十三年、広平皇帝親請僧、講楞厳経。諸大徳自連署、戒明不連署。☆25

戒明は大安寺の人で、論争の舞台も大安寺であった。戒明が『楞厳経』を真経と主張した根拠は、 「唐大暦十三(778)年、広平皇帝親しく僧を請いて、 楞厳経を講ぜしむ」という行事を「唐に於いて見聞した」☆26からであるいう。

では、戒明が見聞したと主張する講義の内容は、どのようなものであったのだろうか。 この頃までに惟慤疏は成立しているものの、戒明の発言が事実かどうかも含めて、資料がないため知ることは難しいが、 その参考になると思われるのが、承和5(838)年、円仁らと共に入唐した常暁(~865)による『常暁和尚請来目録』に見える記事である。 ここでは「三論宗学頭法師等が請来を申し求め」たものとして三論の注釈書とともに、

大仏頂経疏一部六巻弘抗法師造
大仏頂経玄賛一部三巻惟慤法師造☆27

をあげており、三論宗にとって惟慤疏を含めた『楞厳経』の注釈書の関心の高さが伺える。これら注釈類の将来の目的については、同目録に、

又空有両宗論真性理、大仏頂経為本模、経本雖先来、其疏未有、於義難決。 如今以此、将正空有両家諍論義。夫一翼若闕、空行何飛。 況乃一乗奥理、義与文遠、不仮疏記、微微無顕、雖有労載車、冀以此俾補乎聖典。☆28

とあることからもわかるとおり、空有の論争における三論宗側の資料として『楞厳経』を補う「疏記」等を将来し、 それによって「一乗奥理」を顕現せんとしたためであるという。 したがって、戒明が見聞した(と主張する)唐における『楞厳経』の講義の内容について諸大徳に尋ねられた際、 「一乗奥理」に関連することを述べた可能性は充分に考えられる。『楞厳経』は如来蔵思想をはじめとする様々な教理を説く経典であるが、 最澄による惟慤疏の引用、日本における空有の論争について 「隠れた主題が仏性論にあった」☆29と言われていることなどから考えると、 その「一乗奥理」が、中国における仏性論争の一乗側の主張に近い内容だった可能性も考えられる☆30

なお、『大乘三論大義鈔』には、もう一カ所逸文がある。

唐大興福寺惟慤法師、釋此偈云「兩祛眞妄、眞妄二號、相假立名、妄疾既除、 眞亦不留、雙排兩名、圓階妙體」已上☆31

これは『楞厳経』巻五冒頭の偈頌に対する注釈であるが、 『楞厳経箋』中の惟慤の科文の中に「次両祛真妄」☆32とあり、 わずか四文字ではあるがこれに重なる部分があることから、両者が同じ文献である可能性は高いのではないかと思われる。

鑑真門下と仏頂系密教

余談になるが、先に引いた『大乘三論大義鈔』の引用文で、『楞厳経』を将来したのが普照とされているところに注目したい。 普照は言うまでもなく、鑑真を日本に将来した人物の一人である。

鑑真門下と『楞厳経』をめぐる論争との関連について見てみると、先の年表にあげたように、 戒明が連署を迫られていた宝亀10年(779)に思託が「大仏頂行道」 なる仏事を執り行っていることが注目される☆33。 これがこの論争と直接的な関係があるかどうかは不明であるが、大安寺と鑑真門下の強いつながりを考えれば、 まったく関係がないとは言えないだろう。

他に『楞厳経』と関連することとしては、鑑真が渡来する際の持参品のなかに「五頂像一鋪」というものが見えるのがあげられるだろう。 これは、安藤更生氏によれば「恐らく五仏頂像の略」☆34であるとのことであり、 仏頂系密教と鑑真との接点が認められる。加えて、鑑真の弟子であった道忠の門下で、大安寺出身の円澄(後に最澄の弟子となる)が、 得度前にもかかわらず「五仏頂法」☆35を修していることもあげておきたい。 この事件は、当時の円澄の身分・立場から考えてあまりにも不自然だということで先学によってさまざまな議論がなされてきたが、 結局のところ三崎良周氏が「五仏頂法修法については事実と認められるようである」☆36と 述べているような結果に落ち着いているようである☆37。 この「五仏頂法」を、円澄がどのようにして学んだのかについては、さまざまなルートが考えられるであろうが、円澄と大安寺との関係を考えると、 右にあげた鑑真や思託らによってもたらされた仏頂系密教を学んだという可能性も否定できないのではないだろうか。

最澄『依憑天台集』所引の惟慤疏

大安寺三論や鑑真門下と関わりが深い最澄もまた、その著作『依憑天台集』に 「大唐大薦福寺仏頂宗沙門惟懿が天台義を引いて経疏ならびに鈔を造る」ことについて「大仏頂経疏鈔上巻」の文が引用している。

其大仏頂経疏鈔上巻云「又止観之門、三乗必進之路、無有不遊斯径路、而証菩提哉。 故知、其門道之枢要。又先賢所習、皆約教門。天台広集四乗、撰十巻大止観、両巻小止観、広述境界、事煩不能載」云云。 又云「若天台止観文中説、発見惑則従多聞発、則先断見、病在惑従禅発、此則修後方有之。所以前三陰止、且求定。 縦有観少、約定多行、陰後観多。所以観止立見病。 天台文中、則将六師比論、亦好」云云☆38

従来、惟慤疏は、『宋高僧伝』に「華嚴宗」などという表現があることから、華厳教学的なものであるという評価がされていたが、 最澄の言葉をそのまま受け取る限り、天台教学の影響も考慮しなければなるまい(ただし、最澄の引用態度については、 問題が多いので注意を要する)。

まとめ

以上、『楞厳経』惟慤疏の逸文紹介を中心に、いくつかの問題点を指摘した。 量も少なく断片的ではあるが、従来の研究成果を訂正できる材料を提示できているのではないかと思う。 今後は、より網羅的な逸文調査を進め、それをふまえて惟慤疏の性格のみならず、『楞厳経』の成立問題、 当時の思想史的状況などの検討を行いたい。

謝辞

本稿は、科学研究費補助金・若手研究B「Nグラムモデルを用いたクラスタ分析による大規模漢字文献分析の基礎的研究」 (課題番号15700215、研究代表者: 師茂樹)による成果の一部である。

略号

大正
大正新脩大蔵経
続蔵
卍続蔵経(蔵経書院影印版)
日仏全
大日本仏教全書(鈴木学術財団版)
伝全
伝教大師全集(復刻版)
印仏研
印度学仏教学研究

脚注

  1. 惟慤の名前はこのほかに「惟懿」という表記もあるが、本稿では惟慤に統一する。
  2. 常盤大定「大仏頂首楞厳経」に関する諸問題」(『支那仏教の研究』2、春秋社、1941〔復刻版、名著普及会、1979〕)、p. 23。
  3. 長部和雄「般刺蜜帝訳『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』の成立過程に関する小考」(『那須政隆博士米寿記念 仏教思想論集』、1984)
  4. 崔昌植『敦煌本『楞厳経』の研究』(大正大学への博士学位請求論文)、p. 266。 なお、本論文の入手にあたっては任京美氏のご協力を頂いた。記して感謝申し上げる。
  5. 同、p. 44。
  6. 大正50, 738b-c.
  7. 椎名宏雄「唐代劔南禅宗における戒律の問題」(『印仏研』18-2(36)、1970)
  8. 惟懿が聖なる存在の憑依によって注釈書を著わしたと自ら言っていたという記事(「自謂從淺智中衍出矣」)は、 『楞厳経』の成立を考える上でも興味深い発言であろう。
  9. 大正55, 1169b.
  10. 伝全3, 360.
  11. 崔昌植前掲『敦煌本『楞厳経』の研究』等。
  12. 鎌田茂雄「円覚経惟慤疏について」(『佐藤博士古稀記念 仏教思想論叢』、山喜房仏書林、1972)。なお、鎌田氏が同論文中で指摘する逸文の他にも、惟慤のものと思われる引用文が発見できたので、重複分を含めてここに列挙しておく。
    1. 慤云、大者叙心靈之絕量(続蔵14, 240a.)
    2. 慤云、廣越塵沙、圓無間缺(続蔵14, 241b.)
    3. 慤云、見真凝寂…(続蔵14, 342b.)
    4. 慤疏、於此二十五觀、約喻各立一名、除初三輪…(続蔵14, 358b.)
    5. 慤云、言妄業道者、一念貪染地獄門開瞥起瞋心…(続蔵14, 367b.)
    6. 慤云、厭識流轉、伏念澄神、趣寂纏空…(続蔵14, 367b.)
    7. 慤云、調適即稱理…(続蔵14, 369b、以上『大疏』)
    8. 慤云、若非蓮藏化主、孰踞其源…(続蔵14, 420b.)
    9. 慤疏云、且水性清潤、漑灌呈功、投于外塵汨(続蔵15, 11b、以上『大疏鈔』)
    10. 慤云、如萬鈞之鏞、星樓受礙、搖杵一撃、聲振寰區…(続蔵15, 155a.)
    11. 慤疏、於此二十五觀、約喻各立一名…(続蔵15, 156b.)
    12. 慤意云、一人倶修三觀、即名為齊、非謂同時(続蔵15, 157、以上『略疏』)
    13. 慤云、若非蓮藏化主、孰踞其源…(続蔵15, 189a.)
    14. 慤云、行人至此、溺水沈舟(続蔵15, 254a.)
    15. 慤云、首楞歎虚空之小、圓覺嗟法性之寛、比之常談、海形牛跡(続蔵15, 283b.)
    16. 慤疏云、大士張教、綺互相承、若一人請周、餘當杜述(続蔵15, 325b.)
    17. 慤疏云、且水性清潤、漑灌呈功、投于外塵汨(続蔵15, 407a.)
    18. 慤云、心自取心、自成心病…(続蔵15, 412a.)
    19. 慤疏總科五名云、初圓照總持、二契經宗決、三三昧根本、四寂滅真常佛常以寂滅為所依境界、五真妄含分(続蔵15, 446a.)
    20. 慤本文云、能招漏果之資(続蔵15, 447b.)
  13. 続蔵14, 579b.
  14. 続蔵14, 662a.
  15. 以下の宗密の諸疏と『楞厳経箋』との比較においては、 Nグラム・モデルに基づいたコンピュータによる比較処理を行った(電子テキストの校正が不十分なため、 見落としている用例が少なくないと思われる。全体的な用例調査については今後の課題としたい)。 Nグラムによる古典文献研究については、師茂樹「大規模仏教文献群に対する確率統計的分析の試み」 (『京都大學人文科學研究所創立75周年記念中國宗教文獻研究國際シンポジウム報告書』、 2005)☆補注1等を参照。実際の作業においては、拙作Nグラムツールmorogram (http://sourceforge.jp/projects/morogram/)と 近藤泰弘氏作ngmerge.pl(http://klab.ri.aoyama.ac.jp/tool/)を 使用した。
  16. 大正19, 131a.
  17. 続蔵14, 712a.
  18. 続蔵89, 173a-b.
  19. 本論争に関しては、 師茂樹“Chikō's Criticism of the Hossō Sect, and Wŏnhyo's Influence”(『印仏研』50-2(100)、2002)、 同「相部律宗定賓の行状・思想とその日本への影響 ―『四分律疏飾宗義記』に見える仏身論を中心に―」(『戒律文化』2、2003)、 同「清辨の比量をめぐる諸師の解釈 『唯識分量決』を中心に」(『한극불교학결집대회논집(韓国仏教学結集大会論集)』Vol. 2, No. 1、2004)、 同「清辨比量の東アジアにおける受容」 (『불교학연구(仏教学研究)』8、2004)、 同「玄奘の唯識比量と新羅仏教 日本の文献を中心に」 (『2004금강대학교 국제불교학술회의(金剛大学校国際仏教学術大会)予稿集』、2004)等で論じたことがある。
  20. 以下の文脈では、用例から『楞厳経』は「大仏頂経」と略称されることが多い。
  21. またこの他にも、『東大寺六宗未決義』には「大仏頂経疏分別明菩薩」(日仏全29・2b)とあるが、 この「分別明菩薩」とは清辨の異名とされていることから、 清辨に『大仏頂経』の注釈書があると考えられていた可能性も否定し得ない。
  22. 大正19, 125c.
  23. 太田久紀「日本唯識研究 ―空教の位置づけ―」(『駒澤大学仏教学部論集』31、1973)、 同「日本唯識研究 ―他教学とのかかわり―」(『印仏研』28-1、1979)、 平井俊榮「平安初期における三論・法相角逐をめぐる諸問題」(『駒澤大学仏教学部研究紀要』37、1978)、 松本信道「『大仏頂経』の真偽論争と南都六宗の動向」(『駒沢史学』33、1985)、 同「『延暦僧録』戒明伝の資料的特質」(『駒沢史学』37、1987)、 同「三論・法相対立の始源とその背景 ―清弁の『掌珍論』受容をめぐって」(平井俊栄編『三論教学の研究』、春秋社、1990)、 同「空有論争の日本的展開」(『駒大文学部研究紀要』49、1991)、 同「大安寺三論学の特質 ―道慈・慶俊・戒明を中心として―」(『古代史論叢』、1994)など。
  24. 大正70, 151b-c.
  25. 『日本高僧伝要文抄』3、日仏全62, 57a.
  26. 松本信道前掲「『延暦僧録』戒明伝の資料的特質」、p. 37。
  27. 大正55, 1069a.
  28. 大正55, 1069b.
  29. 平井俊榮前掲「平安初期における三論・法相角逐をめぐる諸問題」、p. 82。
  30. 後の最澄・徳一論争が、空有の論争、鑑真門下の戒律の受容などとあわせて、 中国における仏性論争を継承するものであることについては、拙稿前掲「相部律宗定賓の行状・思想とその日本への影響 ―『四分律疏飾宗義記』に見える仏身論を中心に―」で論じた。
  31. 大正70, 152a.
  32. 続蔵89, 113a.
  33. 日仏全62, 52a.
  34. 安藤更生『人物叢書新装版 鑑真』(吉川弘文館、1967)、p. 53。
  35. 『類聚国史』178・仏道部5、国史体系6, 228。
  36. 三崎良周『台密の研究』(創文社、1988)、p. 179。
  37. 三崎氏は別の論文で「第一、五仏頂法を修してから得度に預り、具足戒を受けていること、 第二、最澄の高雄灌頂を毘盧遮那秘法と称していること、第三、その時に灌頂三昧耶戒を受けていること等」 (「伝教大師最澄の密教思想」〔『フィロソフィア』56、1970〕、p. 63)をあげて、 円澄の五仏頂法修法に関する記録に疑問を呈していたが、本文の通り「事実と認められるようである」と訂正している。 水上文義氏も同様に疑問を呈していたが(「伝教大師最澄の密教修法資料に関連する一、二の考察」〔『天台学報』18、1976〕)、 後にやはり「事実であったとも考えられる」(「初期台密における五仏頂法」〔『印仏研』27-1、1978〕、p. 137) と結論している。
  38. 伝全3, 360.

補注

以下の補注は論文が出た後のもの。

  1. 同論文は『漢字文化研究年報』1、2006年3月、pp. 116-128にもほとんど同じものを収録。


mailto: s-moroNO@SPAMhanazono.ac.jp
$Id: 200507ZengakuKenkyu.html,v 1.2 2007/05/19 05:51:19 moromoro Exp $