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以下のテキストは、2004금강대학교 국제불교학술회의(金剛大学校国際仏教学術大会)予稿集、 2004年10月に掲載された論文の提出原稿をHTML化したものです。 実際に掲載されたものと異なる場合があると思いますが、ご了承ください。
諸書に収録された玄奘(602-664)の伝記☆1を見ると、 彼はインドにおいて『会宗論』☆2『制悪見論』☆3 『三身論』☆4等々の書籍を著したようである。 残念ながら、これらの文献は現存していないため、我々が読むことはできないが、伝記中の記事などからその内容を伺うことはできる。 基(632-682)の『因明入正理論疏』では、玄奘が戒日王主催の無遮大会において唯識比量、 すなわち唯識無境を証明するための次のような推論式を立てたという。
且如大師、周遊西域、學滿將還。時戒日王、王五印度、爲設十八日無遮大會、令大師立義遍諸天竺。 簡選賢良、皆集會所、遣外道小乘、競申論詰。大師立量、時人無敢對揚者。 大師立唯識比量云「眞故極成色不離於眼識宗。自許初三攝眼所不攝故因。 猶如眼識喩」。☆5
『続高僧伝』所収の玄奘伝によれば、この大会における論争において玄奘を論破できる者はおらず、 また『制悪見論』がここで説かれたとあるとされている☆6。 もしそうであれば唯識比量がその内容の一部であった可能性もある☆7。
ところでこの比量については、古来、清辨(Bhāvaviveka、c. 490-570)の比量との類似性が指摘されてきた。 江島氏は清辨の論理の特徴を、
論理学一般は存在者を実体的・固定的に把握する傾向をもつ。 他方空性の考えは、観念・言語によって存在者が実体的・固定的に把握されることを拒否する。 論理学と空性の考えの間にあるこの緊張関係を解決するために、Bhāvavivekaは、空性を論証するための推論式に、 まず“勝義において”という限定づけを附し、さらに空性論証に伴う否定判断のすべてを、 何の定立をも含意しない非定立的否定(prasajya-pratisedha)と規定したのである。☆8
と述べているが、 先に引いた唯識比量冒頭の「真故」はまさに「勝義において」という限定句(簡別語)に相当するという☆9。 法相宗においては伝統的に清辨を「悪取空」として批判し続けているが、 法相宗第一祖の基(632-682)の師である玄奘が清辨と同じような比量を用いて唯識の真実性を証明しようとしたということは、 法相宗のみならずその周辺においても大きな問題となり、様々な著作で活発な議論が行われた。
新羅においてもそれは同様であった。それに加えて中村元氏は、唯識比量に対する新羅僧の解釈が、 韓国人の思惟方法の特徴の一端を表していると述べる。 すなわち、順憬や元暁による解釈から、ハングルの発明にも通底する韓国人の合理主義が見いだせるというのである。 特に順憬らが、法相宗の護教的解釈に与しなかったことを高く評価している☆10。 さらに中村氏は、韓国への仏教の伝来において、インドや中央アジアから直接もたらされた可能性を指摘し、 これが韓国人の思惟方法の特徴の一つである普遍性に対する志向を示しているという☆11。
本稿では、新羅僧による唯識比量の解釈をいくつか検討することを通じて、中村氏の見解を批判的に評価したい。 残念ながら、唯識比量に関する新羅僧の著作は現存しないものがほとんどで、 日本人の著作を中心とした様々な文献から逸文を集めて検討するほかない。 したがって本来ならば、順憬らを受容した当時の日本の思想史的状況☆12も考慮に入れつつ、 検討を進めなければならないが、本稿ではそこまで及ばなかったことをお断りしておきたい。
唯識比量の検討を始める前に、清辨とその比量が東アジアにおいてどのように理解され、受容されたかについて一瞥しておくことは、 その後の議論を進める上で有用であろう。ただし、これは拙稿☆13ですでに論じたことでもあるので、 ここでは新羅僧にとどめたい。
東アジアで議論の対象となった清辨の比量とは、清辨の作とされる『大乗掌珍論』(以下『掌珍論』)冒頭の比量である。すなわち、
真性有為空 如幻縁生故
無為無有実 不起似空華☆14
という偈頌で述べられた比量(掌珍比量)である。このなかの最初の「真性」が「勝義において」という限定句に相当する。 東アジアにおける清辨の比量についての議論は、主にこの「真性」を如何に解釈するか、という問題でもあった。
平井俊榮氏は『掌珍論』について「訳者が玄奘であることから、 これを研究註疏したのは法相系の学僧が多かったのではないかと思う」☆15と述べている。 そこで『掌珍論』に関する注釈書の存在について見てみると、 文備・靖邁・神泰・元暁・太賢らの作を目録中に見出すことができるものの☆16、 残念ながらすべて散佚しているようである。 この中、「(玄奘)三蔵の同学」☆17とされる文備、新羅に留まった元暁、 時代が下る太賢らを玄奘門下とは言うのは不自然であろうし、 さらに玄奘門下に法宝のような法相教学への批判者がいたことなども併せて考えると、 平井氏の言うように「法相系の学僧が多かった」と単純に言い切れないのではないかと思われる。
ここでは最初に、円測が清辨の比量を部分的ながら過失がないと考えていたことをうかがわせる資料を見てみよう。
又言「撥無一切法」者、如掌珍頌「眞性有爲空、如幻緣生故、無爲無有實、不起似空華」。 測云「若勝義空、有相符過。若世俗空、聖敎相違。故論總與聖敎相違」。☆18
測法師説「若依勝義勝義説者、宗有相符極成過、我亦許故。若依世俗勝義、即有聖教相違過、以華嚴深密等經皆説有依他起性圓成實性。 若説一切有部、同法喩中有能立不成過。幻化之事雖我許無成同法喩、然彼不許從縁生故定無法故等」云云 廣如彼疏。☆19
上の引用文の中で円測は、掌珍比量の「勝義においては」という限定句を、 唯識側が四種勝義諦中の勝義勝義(勝義空)と見なした場合に限り相符極成過、 すなわち主張命題が立論者(清辨)と反論者(円測側)との間で承認されてしまっている(相符極成)ため、 比量として立てる意味がなくなってしまった過失であると解釈している☆20。 裏を返せば、円測は清辨の比量の内容について、ある条件においては過失がないとしているのである。
次に、同様の議論が善珠(723-797)『唯識分量決』中にも見られるので、それを見てみよう。 ここでは掌珍比量と護法『大乗広百論釈論』中の同様の比量とが同じか違うかについて、以下のような諸説が引用されている。
(1)新羅元曉法師判比量論云「掌珍比量同廣百量」等云云。
(2)道證師解此判非理、量意別故。掌珍論云「若他遍計所執有爲、就勝義諦實有自性、今立爲空」。 廣百第七云「欲破外道餘乘遍計所執境相」。立此二量、雖彼二論皆破所執、而所對異。廣百唯破小乘外道、掌珍通對大小及外。
(3)昉法師説、珍百二論所對無異。掌珍他言、攝外道及餘乘、故設對大乘皆破所執。顯法非實、量意同故。是以證評亦非盡理。
(4)興法師説云、二論量別、而不同集意。所以然者、掌珍云空、廣百非實、義極異故。護法既言有爲無爲體非實有、 當知非謂體相皆空、如何得言成空似量同立非實。若言清辨空表非實故無過者、即違此論釋成邪見云外道但執非實故。 廣如貶量第十卷。☆21
ここではまず(1)元暁が『掌珍論』と『大乗広百論釈論』の比量が同じであると述べているのに対して、 (2)道証が『掌珍論』と『大乗広百論釈論』とは破斥の対象が異なる(前者が大小乗と外道、後者が小乗と外道のみ)ため、 意図が異なるのではないかと批判している。またその後に引用される(3)神昉の説には、両者の比量の対象は同じであり、 意図もまた同じであると述べられている一方、 (4)『掌珍論』と『大乗広百論釈論』とは前者が空を説くのに対して後者は実有の否定をしていると言う点で比量の内容が異なると述べる憬興 『成唯識論貶量』の説を引いている。
言うまでもなく護法は、東アジアに普及した法相唯識思想のインドにおける祖師と言うべき論師である。 したがって、護法と清辨を同じと見なすということは、 清辨の比量を否定的に捉えているのではないことがわかるのではないだろうか☆22。
これに関連して、護法と清辨との間に諍論があったのかという問題について述べている太賢『成唯識論學記』の説を見てみたい。 『學記』卷上本の冒頭においては、清辨(般若経、掌珍比量)と護法(解深密経、中辺分別論)とが対比され、 両者の間に諍論があったのかどうかについて三説が提示されている。
且有二宗。一淸辨等述般若、言有爲無爲俗有眞空、 如掌珍頌「眞性有爲空、如幻緣生故、無爲無有實、不起似空華」。 二護法等依解深密、言一切法有空不空、如中邊頌「虛妄分別有、於此二都無、此中唯有空、於彼亦有此」。 (1)有說此二實有諍論、如佛地論「千年已後、大乘之中空有諍論」。(中略)測等傳說實有諍論。 (2)有說二師都無諍論、淸辯不許勝義無故。(中略)順憬師等傳無諍論。 (3)有說此二語諍意同、如諍浮圖下麤上細、必由許他自始成故。 (中略)元曉師等、語諍意同。☆23
ここでは、対立があったとする円測((1))と、対立はなかったとする順憬((2))、 そして言語表現のレベルでは諍論はあったものの意図は同じであったとする元暁((3))の名前が挙げられている。 これに対する大賢の評価は見られない。
この『成唯識論學記』と先の『唯識分量決』とを併せて考えると、両者の間にそもそも対立はなかったとする順憬や、 「語は諍うも意は同じ」と説を述べていた元暁、神昉らの存在が浮かび上がる。先に述べた円測も含めると、 これらの諸師はいずれも玄奘に年代的に近い人々であることがわかるが、玄奘が清辨の比量の形式を用いていたことから考えると、 彼らの態度は不自然なことではないのかもしれない。
さて、以上の問題をふまえて、唯識比量の解釈についての検討を行いたい。まずは元暁と順憬である。 元暁や順憬の唯識比量解釈については、中村元氏をはじめ多くの先学によって検討されており、 特に元暁『判比量論』については金星喆氏による包括的な研究☆24が発表されている。 ここでは中村元氏を引用しよう。
この立論(=唯識比量―引用者)は、感覚的知識を離れた勝義の心理の立場なるものを承認しない人々に対しては、 説得するだけの効力がない。すなわち因明で説く「他人に説くための推理」(他比量 parārthānumāna)としては、無意義である。 また因すなわち理由命題は立論者と反対者との両方がともに承認しているもの(共許極成)のものでなければならないのに、 自分の方でだけ承認しているにすぎない命題を理由として提示することは、論証として無意義である。 すなわち自分で理解するための推理(自比量)と他人を説得するための論証(他比量)との区別を、 玄奘三蔵は十分に理解していなかったのである。この立論に誤謬の存することを、 新羅の順憬が指摘している。☆25
元暁の立場は玄奘に対して同情的であり、解釈学的である。しかし順憬の欠点を会通することにはならない。 それと同時に、玄奘の所論は実質的に論証になっていない。 なんとなれば、自分の学派だけで認めることを論拠としてもちだすならば、論敵を承服させることはできないからである。 この構造を元暁は決して見逃さなかった。☆26
ここで中村氏は、元暁と順憬による批判をほぼ同じ内容として紹介しているが、これは偶然ではない。 すなわち善珠『因明論疏明灯抄』巻三末では、順憬の批判が実は元暁の作ったものであるという説が述べられているからである。
今此決定相違者、本是新羅元曉大徳之所製也。後順憬師、得此比量、不能通釋、乾封年中、遣於大唐、令決其疑所以得知。 定賓律師理門疏云「新羅順憬師、乾封年中、傳彼本國元曉師作相違決定、來至此國云『眞故極成色、定離於眼識、因喩同此』。 三藏于時躊躇未釋」云云☆27
ここでは、定賓『因明理門論疏』を証拠としてあげるほか、善珠自身が上記引用の直後から『判比量論』自体の検討も行っている。 これに関連して蔵俊(1104-1180)『因明大疏抄』には、次のような説話☆28が引用されている。
(元曉和上縁起云)玄奘三藏於西域中、欲學瑜伽論。 時西域中在戒賢論師、欲涅槃時、天唱如是言「漢國之賢人爲學瑜伽論故來、莫爲涅槃」。 爾時玄奘順付、往學瑜伽論。然後立眞故極成量、而破小乘執、時西域諸論師等無釋此量。 此諸論師皆言「不陳那不能是量釋」。
時玄奘還於漢國而爲説是量、時無斥是量過。 爾時造廣百論疏、文軌師誓願言「不陳那菩薩無是量釋、若有是量過人、我爲其作臣也」。 爾時順師學是已、還於羅國申是量。時元曉菩薩云「此量有法差別相違過」。 爾順師如其自知通於唐國言、水土是易故、至於羅國知是量過。 時論師等皆向東三禮尊重讃嘆。故道證師等章疏中、羅國元曉師等章疏中、羅國師所説、由是義故知、 陳那菩薩云云☆29
ここでは、下線部にあるように、順憬説とされるものが元々元暁の作であり、順憬は唐と新羅との間を橋渡しする存在であったとされている。 それに加えて、波線補注1で示したように、 元暁が陳那(Dignāga)の後身であることを示す逸話が挿入されている。
ここで元暁と順憬の説を比較してみよう。元暁の説は善珠『因明論疏明灯抄』に『判比量論』からの引用とされるものが見える。
(曉法師判比量中、簡小乘所作決定相違過云)若對五根實互用宗、 則應立言「眞故極成色離極成眼識、自許初三攝眼識不攝故、猶如眼根」。 若作是難、可離不定。以大乘宗「極成眼識必不縁眼故」。 此眼根爲共同品、識不攝因於此定有。 極成眼識、爲其異品、於彼遍無。故非不定能作敵量已上☆30
すなわち、例えば唯識派においては、八地以上の菩薩は五根が互用し、耳でものを見る、などということができると主張する。 そのような場合、「眞故極成色離極成眼識(勝義においては、一般に承認された物質的なものは、 眼の認識作用から離れて存在しうる)」という唯識比量とはまったく反対の主張命題が成立し、 相違決定過(二つの主張命題が矛盾しているにも関わらず、それぞれの理由命題が完備しているため、 論証能力がない過失)になってしまう。それを防ぐために、「眞故極成色離極成眼識」とすることを述べているのである。
次に順憬であるが、基より名指しで批判されていることで有名である。すなわち、『因明大疏』において、
然有新羅順憬法師者、聲振唐蕃、學苞大小、業崇迦葉、毎禀行於杜多。 心務薄倶、恒馳誡於小欲。既而蘊藝西夏、傳照東夷、名道日新。 緇素欽挹。雖彼龍象不少。海外時稱獨歩。 於此比量作決定相違、乾封之歳、 寄請師釋云「眞故極成色定離於眼識、自許初三攝眼識不攝故、猶如眼根」。☆31
と述べられ、以下、縷々批判が展開されている。 唯識比量の相違決定過を明らかにするために示したとされる「眞故極成色定離於眼識、自許初三攝眼識不攝故、猶如眼根」という比量は、 確かにほぼ同じである。
なお、順憬の批判に関連して、基『成唯識論掌中枢要』巻下では、
和上所立唯識比量云「眞故極成色不離於眼識、自許初三攝眼所不攝故、猶如眼識」。 順憬師決定相違云「眞故極成色定離於眼識、自許初三攝眼識不攝故、猶如眼根」。 此如憬師抄解、裕師邊取。☆32
と述べ、実際には「裕師」と呼ばれる人物が「邊取」、すなわち一面だけを取り上げたものであると述べている。 『因明大疏抄』所引の「小塔院唯識比量私記」ではこれについて、
彼新羅邊國有順憬師、作決定相違過失。 時弟令裕師至大唐慈恩寺、以示大乘基師。☆33
と述べ、弟子である令裕☆34を遣わしたとする。 これらの伝説がもし正しいのであれば、順憬は玄奘を批判したのではなく、元暁と同様、 玄奘に対して擁護的な解釈を説いたにもかかわらず、その一部分だけが注目されるような伝え方がされたために、 玄奘の批判者というレッテルを貼られた、と見ることもできる。
いずれにせよ、唯識比量の解釈において、元暁を祖とし同じような解釈を共有する学系が形成されていたことは間違いないようである。
次に憬興・道證・大賢の説について見てみたいと思う。 ここで三人をまとめて扱うのは、後に触れるように、この三人がまた一つの解釈のグループを形成していたと思われるからである。 蔵俊『因明大疏抄』には、「古迹記云」として以下のような引用文が見える。
(古迹記云)(1)極成色者、基云「爲簡唯小乘許佛有漏色、唯大乘許他方佛色、而取共許所餘色也。 若立前二、便如次有一分自他所別不成、因有隨一所依不成。以此比量共比量故」。
集曰、此解不然。且依傳説、汎因明法、共比量中引自他法皆作不定。若☆35除小乘別許之色、 彼應將此作不定故。
(2)「因云初三攝者、十八界中初三攝也。但言眼不攝、耳等不定故。言自許者、避他有法差別相違。謂定離眼識色、非定離眼識色、是有法差別。 立者許是不離眼色。外作差別相違量云『極成之色非是不離眼識之色、初三所攝眼不攝故、猶如眼識』。 爲遮此過故言自許。謂引自許他方佛色、與彼比量作不定過。凡顯他過、必自無過。汝既不定、我離相違。
然有新羅順憬法師、於此量作決定相違、乾封之歳寄請釋云『眞故極成色定離於眼識、自許初三攝眼識不攝故、猶如眼根』。 時爲釋言、凡因明法、立法自他共敵對必須同。前唯識量依共比量、今依自敵、即無不爾。 如佛弟子對聲生論立『聲無常、所作性故、猶如瓶等』。聲生論立聲量『其常、所聞性故、如自許聲性』。彼不成難。此亦應然。 謂立言自許依共比量、避他有法差別相違。然彼敵量宗喩皆共、唯因依自、隨一不成。大乘不許『自許眼識不攝故』因、於共色轉。 同喩亦有所立不成。大乘之中、根因識果非定即離故」。
集曰、此難不然。敵言「自許」、豈成「眼識不攝故」因。若彼還成眼識不攝、而簡大乘攝相歸識、還以宗法爲因之失。 然其眼識不攝故者。倶取十八界別攝。
(3)判比量云「敵言自許、亦遮有法差別相違、謂敵意許量定離眼識之色。大乘師作相違量云『極成之色應非定離眼識之色、 初三所攝眼識不攝故、由如眼根』。爲引自許佛有漏色作不定過、故言自許」。
集曰、諸釋自許皆失本意。三藏量中自許、若避他相違者、虚設劬勞。 謂若小乘難極成色、合成非色、還害自宗、不成相違、必不違自、理門説故。 若難彼色不離識義、是正所諍、非意許故。若彼差別得成難者、如立宗云「聲是無常、所作性故、猶如瓶等」。於此亦應出如彼過。 謂是無常之聲非是無常之聲、是有法差別。立論意許是無常之聲、外作有法差別過言「聲應非是無常之聲、所作性故、猶如瓶等」。 雖持所諍、無常之義合成非聲、既不成難。雖持所諍、不離識義合成非色、豈獨成難。故上古釋皆不可依。
(4)然彼三藏立唯識意、通對小乘及外道宗。避外不立十八界者、一分隨不成過故、因言自許初三攝也。 因既自故自比量攝、故他不得以不極成佛有漏色而作不定、於自量無他不定故。自義已成、何遣他宗。
(5)文軌師云「因明道理、於共比量自法他法皆得不定、以自在眼識所變眼根之影作不定過。 然判者云、救即無過。眞故極成色離極成眼識、便無不定、極成眼識不縁眼故。以自許佛有漏色、於前共量、他作不定。 便改因云『自許極成初三攝』等。如無漏色耳識等縁、雖離眼識而非極成初三攝、故不成不定」。然今如前自量爲好。
(6)和上云「本量云『不離眼識』者、眼識・本識合名眼識。立影不離眼識之時、便成質亦不離本識。如顯揚云『阿頼耶識即六識』故。 不爾本量有不定過、質亦自許初三所攝眼所不攝、離眼識故」。然無此過、良由本意、諸識爲一、空諸境故。如説藏識海轉浪起故。 由此外量喩有所立不成之失。雖有諸家、且存此釋云云☆36
この「古迹記」は、題名からして大賢『因明入正理論古迹記』(散逸)☆37ではないかと思われる。
この引用文のうち、「…」でくくった部分は基『因明大疏』や元暁『判比量論』などからの取意であり、 「集曰」以下の部分が大賢のコメントであると考えられる。この部分について善珠『因明論疏明灯抄』巻三末では、 (1)の「集曰…」に相当する文を「太賢師云」☆38として引用するものの、 (3)の「集曰…」以下については「太賢師抄、道證集云…」☆39という出だしで引用していることから、 道證によるコメントを大賢が引用している可能性も考えられる。
また、最後の「和上云…」以下の部分は、善珠が「興師解云…」として引用する文とおおむね一致する。
興師解云「竝取質影爲共許色。本量云不離眼識者、本識眼識合名眼識。 立影不離眼識之時、便成質亦不離本識。如顯揚云「阿頼耶識即六識」故。 不爾本量有不定過。質亦自許初三所攝眼所不攝、離眼識故。」☆40
ここで言われている「興師」とはおそらく憬興(7世紀後半)のことであろうから、 大賢から見て憬興が「和上」という尊称で呼ぶべき存在だったことがわかる☆41。 ここでは、憬興・道証・大賢が同一の主張を共有しているグループとして扱われていると見なしてよいだろう。
内容を見てみると、(1)、(2)、(3)、(5)では唯識比量中の「極成」(「世間一般で認められている…」)や 「自許」(「自分の宗派である唯識派が認めている…」)といった限定句についての様々な解釈を引いて、 それを「皆、本意を失」((3)下線部)したものであると批判している。
(1)においては、基が「極成」という限定句の意図を解釈する際、 小乗と大乗それぞれに特殊な事例を推論から排するためとしているのに対して、 共比量(立論者も対論者も共に承認している概念のみを用いて、 主張命題の述語部分の是非を争う論式)においては宗(主張命題)中の法(述語)は不定であるので、 仮に小乗の事例を除いたとしても不定であることには変わりがない、と批判している。 (4)にあるように、「古迹記」としては唯識比量が自比量であると主張したいので、ここでは共比量という前提を批判しているのである。 ちなみに(1)では「伝説に依れば」と言っているが、(5)の文軌の説に近い。
次に(2)では、順憬が相違決定の例としてあげた比量(「眞故極成色定離於眼識、自許初三攝眼識不攝故、猶如眼根」) に対する基の解釈を批判している。 基は「自許」が「眼識不攝故」に接続すると見なして「自許」が共比量の因の部分だけを自比量にしていると批判している。 それに対して「集曰」以下では、「自許」は「眼識不攝故」を限定するものではなく、 ((4)をふまえれば)「初三摂」を限定するものであるとしている。ここで順憬の説は擁護されているようにも見えるが、 先に述べたように「古迹記」としては唯識比量が自比量であると主張したいので、 それだけでも共比量であろうとする順憬の比量は批判の対象となりうるし、 また順憬とほぼ同じ主張をしている元暁は次の(3)で批判されている。 つまりここでは、基の解釈のみを批判対象としていると解すべきであろう。
(3)、(5)は共に、共比量であるという前提で唯識比量を解釈しようとしている点を批判しており、 特に(3)では「上の古釋は皆、依るべからず」と断じている。 もっとも、文軌師☆42という尊称を使っていること(基は呼び捨てである)や、文章の構成から考えると、 (5)は(4)などの根拠として肯定的に引用されている可能性もある。
一方、(4)、(6)では「三蔵」すなわち玄奘の真の意図((4)下線部)を示そうとしている。 (4)では、唯識比量の対象が外道と小乗であったとし、 十八界という概念を認めない外道に対して他隨一不成過(相手の認めない概念を理由として用いる過失)をおこさないために 「自許」という限定句を使っているのだとする。そして、因(理由命題)において「自許」を用いているのであれば、 唯識比量は自比量である、とするのである。(5)の最後に「自量爲好」とあるのも、同内容であろう。
また(6)では、唯識比量における「眼識」が眼識と阿頼耶識とをあわせたものとして解釈すべきである、という憬興の説を引用している。 すなわち、一口に色法といっても、眼識の対象となるのは相分としての影像であって本質は対象とならないため、 本質のよりどころとなっている阿頼耶識を導入しないと唯識比量は過失があることになってしまう、というのである。
最初に見たように、玄奘は論争をしなければならないという状況で唯識比量を作ったわけであるから、 それだけを見れば元暁をはじめとする諸師が共比量であると理解したことは不自然ではなく、 むしろ自比量と見なす古迹記の立場の方が異常に思える。 しかしこれは、玄奘伝に説かれている無遮大会を史実と見なすことが前提であり、 自比量が成立するとすれば別の文脈を憬興らが想定していた可能性もある。 この点については現在のところ想像の域を出ないため、今後の課題としたい。
以上、少ない用例を検討したにすぎないが、新羅における唯識比量の解釈には、大きく分けて少なくとも二つの系統があることがわかった。 この系統は、第2節で見た比量に対する態度とほぼ重なる。 すなわち、大雑把に言えば、元暁・順憬は掌珍比量と護法『大乗広百論釈論』の比量とを同じものと見なし、 逆に道証・憬興は両者がまったく異なると主張していた。 つまり、元暁・順憬の系統では、論理のレベルにおいては中観や唯識などの思想的対立は起こりえず、 因明のシステムの中で妥当性を探ろうという傾向を見いだせるのに対し、憬興らの系統には因明の問題を思想上の問題、 言い換えれば唯識思想の是非の問題として考えようとする傾向があるように思われる。 冒頭で見たように、中村元氏は元暁と順憬のみをとりあげて韓国人の思惟の特徴について論じていたが、 憬興・道証・大賢の系統を見ていないのは一面的であったろう。
また、いずれの系統においても、玄奘の比量を全否定することはせず、むしろ玄奘を擁護する方向で解釈が行われている。 その意味では、基の系統と方向性は一致すると言ってよい。 ただし、言うまでもなく、この点において韓国人もしくは新羅仏教には合理性がないと結論することにはなるまい。 思想的な状況からして玄奘を全否定することは彼らにとって困難であったろう。さらに言えば、中国においては定賓などの例外を除けば、 内部で細かい差異はあっても総じて基の説を継承する方向で解釈が一本化していったのに対して、 新羅ではまったく立場が異なる複数の系統が形成されたことを考えると、新羅における因明研究の多様さに気づくはずである。 これを新羅仏教もしくは新羅唯識の特徴と断定することは早計であろうが、今後研究を進めていく上で一つの視点となりうるかもしれない。
以下の補注は論文が出た後のもの。