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以下のテキストは、『불교학연구(仏教学研究)』8、2004年6月、 pp. 297-322に掲載された論文の提出原稿をHTML化したものです。 実際に掲載されたものと異なる場合があると思いますが、ご了承ください。


清辨比量の東アジアにおける受容 このエントリーを含むはてなブックマーク

師 茂樹(花園大学

1. はじめに

1.1 問題の所在

本稿では、未だ不明確な部分が多い7~8世紀東アジア仏教界の状況、特に唯識思想の教派・学系を解明することを目指し、 清辨(Bhāvaviveka、c.490-570)の比量の東アジアにおける受容および諸師の解釈を検討する。

因明をテーマに思想史の研究を行うということは、これまでそれほどなされてこなかったと言って良い。 その理由としては、(1)因明自体がこれまで仏教における補助的学問(寓宗)と見なされてきたことや、 (2)インドで成熟したダルマキールティらによる後期の仏教論理学と比較して不完全なものであると評価されている点を 指摘することができるだろう☆1。 加えて、後に見るように清辨のテキストに関する注釈書の類がほとんど散逸し、逸文に頼らざるを得ない研究環境もまた、 研究の進展を妨げてきた背景と考えられる。

このような状況下で清辨の比量を用いる理由は、(1)玄奘以降の唯識思想に関心が高かった諸師において、 広く関心が持たれたテーマであること、(2)したがってこれまでほとんど研究されてこなかった人々 (特に新羅系の諸師)と基(632-682)・円測(613-696)・元暁(617-686)などを比較できるテーマであること、 (3)さらに清辨をめぐる論争が一乗・三乗の論争に接続する可能性があり、より大きな思想史的位置づけが期待されること、 等々の点があげられる。特に(2)に関しては、近年、日本の文献を中心にした新羅諸家の逸文研究が進んでいることから、 今後大きな進展が期待できる。逆に(3)にあげたような、日本に逸文が残された思想史的背景については、 昨今の逸文研究とは独立して行われているという状況があるため、本稿において両者を接続することができればと考えている。

1.2 清辨の比量と『大乗掌珍論』

ところで、清辨の因明(論理学)については、江島恵教氏による包括的な研究☆2をはじめとして、 これまで多くの研究が積み重ねられてきた。江島氏はその特長を、

論理学一般は存在者を実体的・固定的に把握する傾向をもつ。他方空性の考えは、 観念・言語によって存在者が実体的・固定的に把握されることを拒否する。 論理学と空性の考えの間にあるこの緊張関係を解決するために、Bhāvaviveka は、空性を論証するための推論式に、 まず“勝義において”という限定づけを附し、さらに空性論証に伴う否定判断のすべてを、 何の定立をも含意しない非定立的否定(prasajya-pratisedha)と規定したのである。☆3

と述べている。本稿でとりあげるのは、サンスクリット原典が残っていないものの「その論述形式・内容からしてBhāvaviveka の著作たる資格を充分に具備している」☆4とされる『大乗掌珍論』(以下『掌珍論』)であるが、 その冒頭には、

真性有為空 如幻縁生故 無為無有実 不起似空華☆5

という偈頌で述べられた比量(掌珍比量)があり、このなか最初の「真性」が「勝義において」 という限定句に相当する。後に見るように、東アジアにおける掌珍比量に対する批判は、 主にこの限定句に対するものであった。

平井俊榮氏は『掌珍論』について「訳者が玄奘であることから、 これを研究註疏したのは法相系の学僧が多かったのではないかと思う」☆6と述べている。 そこで『掌珍論』に関する注釈書の存在について見てみると、 文備・靖邁・神泰・元暁・太賢らの作を目録中に見出すことができるものの☆7、 残念ながらすべて散佚しているようである。 この中、「(玄奘)三蔵の同学」☆8とされる文備、新羅に留まった元暁、 時代が下る太賢らを玄奘門下とは言うのは不自然であろうし、 さらに玄奘門下に法宝のような法相教学への批判者がいたことなども併せて考えると、 平井氏の言うように「法相系の学僧が多かった」と単純に言い切れないのではないかと思われる。

一方、日本の法相宗系の文献では、掌珍比量に関する議論が盛んになされ、その中に多くの逸文が見出される。

2. 肯定から否定へ

2.1 『大唐西域記』中の清辨

掌珍比量の受容について見る前に、まず説話の中に見られる清辨像の変遷について概観したい。

『大唐西域記』巻十・駄那羯磔迦国の条には、清辨に関する以下のような説話が見られ、玄奘の清辨に対する評価が伺える。

(1)婆毘吠伽 唐言清辯 論師、住阿素洛宮、待見慈氏菩薩成仏之処。
(2)論師雅量弘遠至德深邃、外示僧佉之服。内弘龍猛之学。
(3)聞摩揭陀国護法菩薩宣揚法教学徒数千、有懐談議杖錫而往、至波吒釐城、知護法菩薩在菩提樹。 論師乃命門人曰「汝行詣菩提樹護法菩薩所、如我辞曰、菩薩宣揚遺教導誘迷徒、仰德虚心為日已久、然以宿願未果遂乖礼謁。 菩提樹者。誓不空見見当有証称天人師。護法菩薩謂其使曰「人世如幻身命若浮。渴日勤誠未遑談議。人信往復竟不会見。
(4)論師既還本土、静而思曰「非慈氏成仏誰決我疑」。於観自在菩薩像前誦隨心陀羅尼、絶粒飲水時歷三歲、観自在菩薩乃現妙色身。 謂論師曰「何所志乎」。対曰「願留此身待見慈氏」。観自在菩薩曰「人命危脆世間浮幻、宜修勝善願生睹史多天、於斯礼覲尚速待見」。 論師曰「志不可奪心不可貳」。菩薩曰「若然者、宜往馱那羯磔迦国城南山巖執金剛神所、至誠誦持執金剛陀羅尼者当遂此願」。 論師於是往而誦焉、三歲之後神乃謂曰「伊何所願若此勤勵」。 論師曰「願留此身待見慈氏、観自在菩薩指遣來請、成我願者其在神乎神乃授祕方」。 而謂之曰此巖石内有阿素洛宮。如法行請石壁常開。開即入中可以待見。論師曰「幽居無睹詎知仏興」。 執金剛曰「慈氏出世我当相報」。論師受命専精誦持、復歷三歲初無異想。咒芥子以撃石巖壁豁而洞開。
(5)是時百千萬衆観睹忘返。論師跨其戸而告衆曰「吾久祈請待見慈氏、聖霊警祐大願斯遂、宜可入此同見仏興」。 聞者怖駭莫敢履戸、謂「是毒蛇之窟、恐喪身命」。再三告語唯有六人従入。論師顧謝時衆従容而入。入之既已石壁還合。 衆皆怨嗟恨前言之過也。☆9

ここで清辨は「雅量弘遠、至徳深邃」であると褒めたたえられている((2))。 また、疑いを決するために護法に論義を挑んだもののかなわなかったという逸話や((3))、 生身のまま弥勒に会うことを願い観音菩薩や執金剛神らの力を借りて、現在、阿修羅宮に住しているという話((1)、(4))、 群集に対して一緒に弥勒に会おうと巌窟に入るよう誘ったが、恐れをなされ六人を除いて従わなかったという話((5))が載せられている。

弥勒作とされていた『瑜伽師地論』の原本を求めてインド旅行を敢行した玄奘に弥勒信仰があったことは言うまでもなかろう。 特に、弥勒信仰と関係の深い観仏信仰が盛んであった中央アジア☆10を通過する際、 如来の遺骨を金貨を払って参拝したり、如来の姿を拝めるという仏影窟に長くとどまったりするなど、 玄奘の弥勒=観仏信仰を物語るエピソードが玄奘伝に多く見られることからして、 (4)の説話について玄奘が肯定的に捉えていたことは間違いなかろう☆11。 (4)の最後では、弥勒仏の当来を待つという清辨の行為に対して、群衆が(未知への恐怖を示しつつも) 肯定的に受け止めているように描写されているのも、玄奘の清辨に対する肯定的な評価を物語るものではなかろうか。

ところで、ここで注意しなければならないのは、玄奘が中観派全般に対して無批判であったと言うわけではない点である。 吉村誠氏が指摘するように☆12、 玄奘が空有の論争をしたという逸話が『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』に見えるからである。

時戒賢論師遣法師、為衆講摂大乗論・唯識決択論。時大徳師子光、先為衆講中・百論、述其旨破瑜伽義。 法師妙閑中・百、又善瑜伽、以為聖人立教各随一意不相違妨、惑者不能会通謂為乖反。 此乃失在伝人、豈関於法也。其局狹、数往徴詰、復不能酬答。由是学徒漸散而宗附法師。 法師又以中・百論旨、唯破遍計所執、不言依他起性及円成実性。師子光不能善悟、見論称一切無所得謂瑜伽所立円成実等、 亦皆須遣所以毎形於言。法師為和会二宗、言不相違背、乃著会宗論三千頌。論成呈戒賢及大衆、無不称善、並共宣行。師子光慚嘴、 遂出往菩提寺。☆13

すなわち、『中論』『百論』をもとに瑜伽義を批判する師子光という大徳に対して、 玄奘が三性説をもとにした「二宗を和会」する説をもってこの大徳を詰問したというのである☆14

これに関連して、円測『解深密経疏』巻五においては、「西方」における異説をあげる中で、

西方諸師、自有兩説。
一清辨等言、於三輪中四諦為初、解深密等以為第二、説法相故、諸部般若、以為第三、無所得故。 (中略)此地諸師、自有兩釋。一云三論但遣所執、一云具遣三性如掌珍等。
二護法等宗、但遣所執、不遣二性。然彼宗中自有兩釋。一真諦三藏云、具遣三性、立三無性、如次應知安非安立。 二大唐三藏云、於三性中、但遣所執、而非二性。☆15

と見え、遍計所執性のみを遣る三論☆16の諸師と、 『掌珍論』に依拠して三性すべてを空ずる諸師がいたことを伝えている。 前者は『慈恩伝』において玄奘が『中論』『百論』を以て 「唯だ遍計所執のみを破し、依他起性及び円成実性を言わず」と評しているのと呼応するだろうから、 玄奘およびその門下においては中観派に対して三論系と清辨系とを分けて把握する傾向があった可能性も考えられる。

しかし時代が下って如理『成唯識論疏義演』巻八本下の説話では、 先に引いた『大唐西域記』の記事を下敷にしているにもかかわらず、 玄奘の評価とは正反対のネガティブな表現で満たされている((2)’、(3)’、(5)’は先の『大唐西域記』に対応する)。

(2)’然清辨者是地前小菩薩、極有我執。
(4)’有中疑、不肯向上上問弥勒決。故遂言「弥勒未成仏、有妻子与我相似、不決我所疑。 待当来下生成仏、方就決疑也」。遂欲留身久住於石。観世音菩薩像前七日七夜不食、 至心求見観音満七日已、即観音菩薩、於石中忽然現身。語清辨言「仁者、作此慇懃至心求見我者、 欲何所求」。清辨言「人命危脆、不得久住。今欲得留身久住、見弥勒当来成仏、決所疑。 今観音菩薩、有何方法令我身久住」。観音言「汝若欲得見弥勒、当広発願生弥勒天宮、親見弥勒、請決疑、可不善也」。 清辨白「願不可改、志不可移。願留此身待見弥勒仏」。観音言「向阿修羅処中」。
(5)’即窟令開、開已遂告諸人曰「若欲得留此身者、可入此窟」。当時唯有六人、同入已窟門 還閉。清辨既是悪趣空故、不能善修。有説清辨当時歳二十八歳也。☆17

この挿話は、筋道としてはほとんど先の『大唐西域記』と違いがないが、 後の挿入と思われる文がいくつか見られる。 清辨の疑問についてはきわめて我執が強いことが原因とされているし((2)’)、 弥勒に対しても、妻子持ちで自分とあまり変わらないので、成仏前に会っても疑いを決することはできない、 という偏見を持っている((4)’)。清辨が洞窟に入った後も「悪趣空であるために、 正しい修行ができないのである」という評価をしている((5)’)。

護法と会えなかったという『大唐西域記』のエピソード(先の引用の(3))が『成唯識論疏義演』では省略されているが、 護法対清辨という対立構造、批判されるべき者としての清辨像を強調するための脚色と言えるかもしれない。 如理と同時代に活躍したであろう良賁が著した『仁王護国般若波羅蜜多経疏』巻上一では、 釈尊から弥勒・無着までの千年間は教説の内容に違いがなかったとして、次のように述べている。

故大乗法千年間付法相承曾無異説、洎千年後空有両宗清辯・護法二大菩薩、各依大乗了義之教、 明有明空見解不同。依西域記、此二菩薩亦不対敵議其優劣。☆18

すなわち、千年後になって護法・清辨の二菩薩によって空有が明かされ見解に違いがあったものの、 直接相対して議論を戦わせることはなかったという『大唐西域記』の記事(上記(3))についても併記しているのである。

いずれにせよ、このような清辨像は玄奘の伝えるものとまったく異なるものである。 この変化は、次に述べる掌珍比量に対する評価の変遷が背景にあると考えられる。

2.2 掌珍比量に対する評価の変遷

2.2.1. 清辨の比量に対する玄奘らの評価

掌珍比量に対する玄奘の評価を考える上で見逃すことができないのは、玄奘の作とされ「唯識比量」と言われる次のような比量である。

真故、極成色不離於眼識宗。自許初三摂、眼所不摂故因。猶如眼識喩。☆19

江島恵教氏はこの玄奘の比量について、最初の「真故」が清辨の「勝義において」という限定句に相当するとし、 したがって「玄奘自身がそのような推論式を使用したであろうことを認めねばならない」☆20と述べている。 先に見た清辨に対する肯定的な態度とあわせて考えても、少なくとも清辨の比量の形式については、 肯定的に捉えていたのではないかと考えられる。

加えて、掌珍比量の過失について論ずる中で、 円測が清辨の比量の形式については部分的ながら過失がないと考えていたことをうかがわせる資料が存在する。

測法師説「若依勝義勝義説者、宗有相符極成過、我亦許故。若依世俗勝義、即有聖教相違過、 以華嚴深密等經皆説有依他起性円成実性。若説一切有部、同法喩中有能立不成過。幻化之事雖我許無成同法喩、 然彼不許従縁生故定無法故等」云云 廣如彼疏。☆21
又言「撥無一切法」者、如掌珍頌「真性有為空、如幻縁生故、無為無有実、不起似空華」。 測云「若勝義空、有相符過。若世俗空、聖敎相違。故論總與聖敎相違」。☆22

ここで円測は、掌珍比量の「勝義においては」という限定句を、 唯識側が四種勝義諦中の勝義勝義(勝義空)と見なした場合に限り相符極成過、 すなわち主張命題が立論者(清辨)と反論者(円測側)との間で承認されてしまっている(相符極成)ため、 比量として立てる意味がなくなってしまった過失であると解釈している☆23。 裏を返せば、円測は清辨の比量がある条件において過失がないとしているのである。

2.2.2. 空有の論争の有無

これに関連して、護法と清辨との間に直接的・間接的な諍論があったのかという問題について、諸師の説を見てみたい。

まず、太賢『成唯識論学記』卷上本の冒頭において、清辨(般若経、掌珍比量)と護法(解深密経、中辺分別論)とが対比され、 両者の間に諍論があったのかどうかについて三説が提示されている箇所に注目したい。

且有二宗。一清辨等述般若、言有為無為俗有真空、如掌珍頌「真性有為空、如幻縁生故、無為無有実、不起似空華」。 二護法等依解深密、言一切法有空不空、如中辺頌「虚妄分別有、於此二都無、此中唯有空、於彼亦有此」。
(1)有説此二実有諍論、如仏地論「千年已後、大乗之中空有諍論」。即此謂故、其諍云何。 且有為中、唯識云「我法非有、空識非無、離有離無、契放中道」。此遣所執、存餘二性。 掌珍論云「如為棄捨堕常辺過説彼為無 亦為棄捨堕断辺過 説此為有 謂因縁力所生眼等 世俗諦摂自性是有 不同空華全無有物 但就真性 立之為空 此存世俗 勝義皆空 又無為中二説不同。 護法菩薩対清辨宗二空即真、唯識論云「性顕二空非円成実 真如離有離無性故 清辨菩薩対護法宗二空所顕、 掌珍論云「於唯無有、一切所執立為真如」。非但出体二説不同 勝義有無 亦為乖諍 如唯識云「此識若無便無俗諦俗諦無故 真諦亦無 撥無二諦 是悪取空 掌珍論云「仏就世俗説有涅槃、如仏説有化生有情、許此有」故、無違宗失。但就真性遮破択滅、以此為証。 測等伝説実有諍論。
(2)有説二師都無諍論、清辯不許勝義無故。如掌珍云「此非有言 唯遮有性 功能斯盡 更不詮無 如世間説 非自絹言未必彼言即詮黒故 又通難言又彼所言 若就真性 一切有為都無所有是立宗義 即謗一切隨邪見者此中宗義 謂空無性虚妄 顕現門之差別 非一切種皆謗為無 護法勝義亦不許有 如廣百云「現在亦非勝義諦有、従縁生故、如幻事等 又説空言 是遮非表 非唯空有 亦復空空乃至廣説。 掌珍所破相應論師 非為護法 護法菩薩 廣百釋中破相應師亦同彼故 為以此証。順憬師等伝無諍論。
(3)有説此二語諍意同、如諍浮圖下麁上細 必由許他自始成故。護法宗必擧所執 無表離四句空有等性 皆所執故 二性妙有 不全無故 由此説言 二空非真 空謂一辺亦不空有 路絶 名真如故 清辨菩薩擧世俗有 離諸無 簡諸真無 俗亦無故 二性妙無 無所得故 若唯遣有 便可得無 亦遣無故 言無所得 無所得者 離四句義 無著般若論云「四句皆是法執摂故 由此正理。元曉師等、 語諍意同。☆24

ここでは、対立があったとする円測((1))と、対立はなかったとする順憬((2))、 そして諍論はあったものの意図は同じであったとする元暁((3))の名前が挙げられている。

(3)に関連するものとして、善珠(723-797)『唯識分量決』中の「掌珍論為量顕過決」のひとつ、 「余量同異決」に注目したい。ここでは護法『大乗広百論釈論』中の、

又所執境略有二種。一者有為、二者無為。諸有為法、従縁生故、猶如幻事、非実有体。 諸無為法亦非実有、以無生故、譬似亀毛。☆25

という比量や、『大仏頂経』の比量(3.3参照)と、掌珍比量との同異が論じられている。 この中、『大乗広百論釈論』との比較において、 元暁『判比量論』☆26とそれに対する道証(640-710?)の批判、 さらにそれに対する神昉(-650-)の説が引用されている。

新羅元曉法師判比量論云「掌珍比量同廣百量」等云云。 道証師解此判非理、量意別故。掌珍論云「若他遍計所執有為、就勝義諦実有自性、今立為空」。 廣百第七云「欲破外道餘乗遍計所執境相」。立此二量、雖彼二論皆破所執、而所対異。廣百唯破小乗外道、掌珍通対大小及外。 昉法師説、珍百二論所対無異。掌珍他言、摂外道及餘乗、故設対大乗皆破所執。顕法非実、 量意同故。是以証評亦非盡理。☆27

ここではまず元暁が『掌珍論』と『大乗広百論釈論』の比量が同じであると述べている。かつて筆者は、 日本三論宗の智光による激しい法相宗批判の背景として元暁の『大慧度経宗要』の存在を指摘したが☆28、 この主張にも同様の態度を看取できる。これに対して道証が、 『掌珍論』と『大乗広百論釈論』とは破斥の対象が異なる(前者が大小乗と外道、後者が小乗と外道のみ)ため、 意図が異なるのではないかと批判しているが、その後に引用される神昉の説には、両者の比量の対象は同じであり、 意図もまた同じであると述べられている。

先の『成唯識論学記』と上の『唯識分量決』とを併せて考えると、両者の間にそもそも対立はなかったとする順憬や、 「語は諍うも意は同じ」と説を述べていた元暁、神昉らの存在が浮かび上がる。 先に述べた円測も含めると、これらの諸師はいずれも玄奘に年代的に近い人々であることがわかるが、 先に見たように『大唐西域記』に諍論はなかったとする説話があったことから考えれば不自然なことではあるまい。 一方、江島恵教氏は『大乗広百釈論』第十巻で護法が清辨を論駁していることを指摘しており☆29、 直接的な諍論の有無はともかく、思想的な対立もしくは文献上での間接的な相互批判はあったことが想像される。 玄奘に近い人々は、肯定・否定のはざまでゆれていたのではなかろうか。

2.2.3. 基以降の否定的評価

法相宗の初祖であり玄奘の一番弟子と見なされている基が、清辨の比量についてどのような評価をしているかを見てみると、 先に見た師・玄奘の唯識比量に対しては、

凡因明法所能立中、若有簡別、便無過失。☆30

と述べ、「真故」という限定語(簡別)について肯定的な解釈をしているように見える。

しかし、『成唯識論』の注釈書における基の態度は、これとは全く逆のものである。すなわち、『成唯識論』巻三に、

有執大乗遣相空理為究竟者、依似比量撥無此識及一切法。☆31

とあるのに対して、基『述記』では、

述曰。第五清辨無相大乗。於俗諦中亦説依他・円成有故、真諦皆空故、今言空者遣遍計所執。 彼執此文為正解故、彼依掌珍「真性有為空」等似比量、撥無此識及一切法皆言無体。 言「似比量」者、謂約我宗真性有為無為非空不空、有法一分非極成過。汝不許有我勝義故、 四種世俗・勝義之中各随摂故。若随小乗、彼転実有、便違自宗、若随汝自宗勝義空者、 我不許汝空勝義故、亦非極成。又以我説若約世俗、無為有為二倶是有、若約勝義、非空不空。 汝今説空、即有違自教之失、名似比量。☆32

と注釈しているのである。ここでは『成唯識論』で「似比量」とされているものが清辨比量であると見なし、 それが命題の主語の一部について承認されていないという過失(有法一分非極成過) を含んだ誤った推論(似比量)であることを示して批判している。このような基の二面的な態度について江島氏は、

中国の学匠慈恩大師窺基(632-682)は、「勝義において」という限定づけについて一貫した考えをもっていなかったようである。 (中略)ここには、慈恩の論理学上の誤解の問題(中村『国訳』解題pp. 6~7)と、 清辨の推論式がDignāga の論理学を越える問題を含んでいることについての彼の無知とが重なりあっていると言えよう。 ☆33

と述べるが、武村尚邦氏が指摘するように☆34中国における因明研究が 「論諍の場において相手をやりこめる方法技術」という性質を持っていた点も考慮せねばなるまい。

さて、基の提示した批判をめぐって、さまざまな異説が見られたようである。 下の表は『唯識分量決』を中心に、同様の議論があれば同時代の文献からも拾い集め、異説をまとめたものである (無印…『唯識分量決』「掌珍論為量顕過決」、*…『法相灯明記』)。「真性有法決」「三支顕過決」「余量同異決」という項目は、 『唯識分量決』に基づく。

真性有法決三支顕過決余量同異決
靖邁『掌珍論疏』不入

円測
宗有相符極成過
元暁『判比量論』

神昉『唯識文義記』不入
不入*宗有法一分不極成過(別)
道証

慧沼(649-714)『成唯識論了義灯』不入

憬興(-681-)『唯識論貶量』
智周(677-733)『成唯識論演秘』

太賢(8C)/利見・希遠『大乗心路章記』☆35不入

義演/義賓*☆36『成唯識論枢要記』

神廓『無性摂論疏』
因有随一不成過
善珠不入

元興寺*宗有法一分不極成過
慚安/興福寺*不入宗有法一分不極成過
行賀(725-803)『唯識僉記』*不入宗有法一分不極成過

まず「真性有法決」であるが、これは「真性」という限定句が有法(主語)に入るか入らないかという問題について諸説を挙げたものである。 『法相灯明記』の該当箇所は、有法一分不極成過が起こる範囲が「真性」の二字においてなのか「真性有為」の四字においてなのか、 という設問であるが、これもやはり「真性」を有法と見なすかどうかという議論として解釈できる。 入ると見なすグループの中に憬興、義賓の新羅僧と元興寺が含まれているが、法相宗の日本伝来を考える上で興味深い。

次に「三支顕過決」であるが、掌珍比量の過失が三支のどこにあるかについて諸説を挙げたものである。 ここでは多くが有法一分不極成過、すなわち主張命題(宗)の主語(有法)に立論者と反論者の間で承認されていない (不極成)部分があるという過失であるとしているが、神廓は理由(因)において反論者が承認しない理由はその資格がないという (他)随一不成過に陥っていると解釈したとされる。

「余量同異決」については先に見た通りである。『掌珍論』と『大乗広百論釈論』の比量が同じか異なるかという問題について、 元暁・神昉らが同じと、道証・憬興らが異なると主張したというのである。

3. 一乗家としての清辨

3.1 三論宗の祖師としての清辨

先に円測が三論と『掌珍論』とを区別している文を見たが、 奈良時代の日本においては清辨とその著作が三論宗に属するものとされてきたことは、 正倉院文書の「厨子絵像并画師目録」を見てもわかる。

第三厨子 三論宗 秦堅魚
梵天 琉璃光菩薩 文殊師利菩薩 維摩詰菩薩居士形 師子吼菩薩 帝釈 増長天王 広目天王 清辨菩薩僧劣 分別明菩薩僧壮 提婆菩薩僧老 龍樹菩薩僧大老 須菩提僧壮 常啼菩薩僧中 多聞天王 持国天王☆37

したがって日本においては、掌珍比量をめぐる激しい論争が、 法相・三論両宗の論争として繰り広げられた☆38。 その深刻さは、次に列挙する延暦年間の詔勅を見ればわかるだろう。

(A) 詔曰。法相之義、立有而破空。三論之家、仮空而非有。並分軫而斉騖、誠殊途而同帰。 慧炬由是逾明、覚風以之益扇。比来所有仏子、偏努法相至於三論多廃其業世親之説雖伝、 龍樹之論将墜。良為僧綱無誨、所以後進如此。宜慇懃誘導、両家並習俾夫空有之論経馳驟而不朽、 大小之乗変陵谷而靡絶。普告緇侶知朕意焉。☆39
(B) 復三論・法相、義宗殊途、彼此指揮、理須粗弁。☆40
(C) 今聞。三論・法相、二宗相争、各専一門彼此長短、若偏被抑、恐有衰微。☆41
(D) 如聞、三論・法相、彼此角争、阿党朋〓、欲専己宗更相抑届、恐有所絶。☆42
(E) 緇徒不学三論専崇法相三論之学、殆以将絶。頃年有勅二宗並行、至得度者未有法制自今以後、 三論・法相各度五人立為恒例。☆43
(F) 真如妙理、一味無二。然三論・法相両宗菩薩、目撃相諍。蓋欲令後代学者、以競此理各深其業歟。 如聞、諸寺学生、就三論者少、趣法相者多。遂使阿党凌奪其道疎浅。 宜年分度者毎年宗別五人為定。☆44

このように、短期間に度重なる詔勅が発布されているということは、三論法相両宗の争いの激しさが伺われると共に、 (E)に「三論の学、殆ど以て将さに絶えなんとす」という表現があることからも、三論宗が如何に切迫していたかが想像される。 ただし、この点については曾根正人氏が、

実際に「三論之学。殆以将絶」という状況があって、状況を憂慮した国家が自発的に動いたとは単純には見なせない。 それならば、華厳等四宗こそが真先に救済の対象となるはずだからである。 想うにこれは、勢力を有するも法相宗に押され気味の三論宗からの突き上げを受けて発動された施策ではなかろうか。 ☆45

と述べているとおり、三論宗が言葉どおり存亡の危機にあったとは考え難い。

また、(A)に「法相の義は有を立てて空を破し、三論の家は仮が空にして有にあらず」とあるとおり、 その論争の内容がやはり空有の是非に関するものであったことが想像される。 実際、智光『般若心経述義』☆46・善珠『唯識分量決』・『東大寺六宗未決義』・ 慈蘊『法相髄脳』☆47・秀法師『掌珍量噵』・護命『大乗法相研神章』・ 玄叡『大乗三論大義鈔』など、激しい論争をうかがわせる文献が多く残されており、 先に示したような掌珍比量の解釈をめぐって大きな論争があったことがうかがい知れるのである。

3.2 空有の論争と仏性論争の接続

この論争で特に注目されるのは、弘仁年間に書かれたとされる『掌珍量噵』である。 これは平井俊栄氏によって「隠れた主題が仏性論にあった」☆48と指摘されているのであるが、 それは次の箇所から読み取ることができる。

凡清辨義、玄奘所伝、何故余師輒加言乎。(中略)又智論・中論・十二門論、此三部論龍樹造。 百論二巻及広百論並提婆造。除玄奘所訳広百論、自余三論、並後秦弘始年中羅什訳。羅什不立悉有仏性義。 今三論師受誰所説立悉有仏性。☆49

ここでは、三論宗が所依としている漢訳『大智度論』『中論』『十二門論』『百論』『広百論』のうち、 前四作が羅什訳、『広百論』のみが玄奘訳であるが、羅什と玄奘とは共に悉有仏性義を立てることがなかったのにも関わらず、 今の三論家は誰の所説をもとに悉有仏性義を立てているのか、と述べられている。 この発言の背景には、神泰と義栄による次のような論争が念頭にあったのであろう。すなわち、『一乗要決』巻下・大文第六の末尾に、

泰法師云「羅什法師、親従西国歴事聴受、知仏性義不遍有情。道生既羅什学徒、公違什師立諸衆生皆有仏性。 故什法師、集衆羯磨擯出道生。道生去後、什師尚在」云云。 義栄法師弾泰師云「按隋朝費長房年録云、羅什偽秦姚興弘始十一年、東晋安帝義熈四年戌申死。然竺道生被擯、宋文帝時也。 如此羅什死後十六年、方至文帝 如何得言羅什未死、道生見擯。又如君言道生見擯、謂当道理。 道生伝云『見擯之時、法師誓言〈我所説合理者、願於現身得癘病〉』等。若不乖理、願執塵尾而終。 後経文来至、如願而死」云云。☆50

とあるように、神泰は鳩摩羅什が一切の成仏を認めていなかったという説を唱え、それに対して義栄が史伝を引いて反論をしているのである。 ここでは羅什とその弟子道生との関係について議論されており、空有の論争に関する内容は見られないが、平安初期の日本では、 成仏に関する羅什の立場が日本三論宗の唱える悉有仏性説の是非を巡る議論の材料として扱われているのは興味深い。

この他にも、最澄『決権実論』において清辨が「内証の一乗」を説く論師として数えられていたり☆51、 『大仏頂経』の注釈書を空有の論争のための 「一乗奥理」を顕すものと評価されていたりする☆52などの例がある。 また逆に、徳一が霊潤のことを「三論宗の人」と見なしていたことを示唆する例もある☆53。 これらの背景に、先に指摘した法蔵の解釈があったことは容易に想像できる。 日本では、清辨をめぐる空有の論争と仏性論争、三一論争が重なり合っていたのである。

では、どのようにして両者は接続したのだろうか。 これについては、法蔵『華厳経探玄記』巻1に地婆訶羅三蔵からの伝聞として引く戒賢・智光の論争が大きな典拠となっていると考えられる。

戒賢即遠承弥勒・無著、近踵護法・難陀、依深密等経・瑜伽等論、立三種教。 謂仏初鹿園説小乗法、雖説生空、然猶未説法空真理、故非了義、即四阿含等経。 第二時中、雖依遍計所執自性説諸法空、然猶未説依他・円成唯識道理、故亦非了義、即諸部般若等教。 第三時中、方就大乗正理、具説三性・三無性等唯識二諦、方為了義、即解深密等経。
第二智光論師遠承文殊・龍樹、近稟提婆・清辯、依般若等経・中観等論、亦立三教。 謂仏初鹿園為諸小根説小乗法、明心境倶有。 第二時中為彼中根説法相大乗、明境空心有唯識道理、以根猶劣未能令入平等真空、故作是説。 於第三時為上根説無相大乗、辯心境倶空平等一味、為真了義。 (中略)此三教次第、如智光論師般若灯論釈、具引蘇若那摩訶衍経、 此云大乗妙智経、此昔所未聞也。☆54

ここでは、小乗(四阿含等経)→諸法空(諸部般若等教)→唯識二諦(解深密等経)という『解深密経』に基づく戒賢の「三種教」と、 小乗→法相大乗→無相大乗という「蘇若那摩訶衍経」に基づく智光の「三教次第」を対比させているのであるが、 注目すべきは、法蔵がこの智光の「三教次第」を、小乗→三乗→一乗という発展段階としても捉えていたということである。

先摂機者、初時唯摂二乗人機、第二通摂大小二機。以此宗計一分二乗不向仏果。 三唯摂菩薩、通於漸・頓、以諸二乗悉向仏果無異路故。 二約教者、初唯摂小乗、次通三乗、後唯一乗。☆55

これは、法蔵が法相教学への批判という意識をもって、 空有の論争というテーマを踏み越えてまでも付加したものであると考えるのが穏当なのではないかと思うが、 上に見た日本における空有の論争の流れを考える際、法蔵のこの解釈は思想史的に大きな意味を持つのではないかと考えられる。

3.3 『大仏頂経』の真偽論争と掌珍比量

ところで、先学の研究でも明らかなように、この日本での論争に『大仏頂如來密因修証了義諸菩薩萬行首楞嚴經』 (以下『大仏頂経』)の真偽問題が深く関わってくる☆56。 すなわち、『大仏頂経』巻五冒頭の偈に、掌珍比量とほぼ同じ比量が見えるからである。

真性有為空 縁生故如幻
無為無起滅 不実如空花☆57

このように、掌珍比量とほとんど変わるところがないため、清辨を擁護することで一向空を主張したい三論宗としてはこの経文を明証とし、 一方、非空非有中道教を了義とし、宗祖が清辨を批判している法相宗側としては、 『大仏頂経』の偽撰説を出すことで三論宗の主張を崩したいというのである☆58。 またこの他にも、『東大寺六宗未決義』には「大仏頂経疏分別明菩薩」(日仏全二九・二b)とあるが、 この「分別明菩薩」とは清辨の異名とされていることから、清辨に『大仏頂経』の注釈書があると考えられていた可能性も否定し得ない。

今、この論争の流れをまとめると、下表のようになる。

養老2 (718)道慈帰朝(『大仏頂経』伝来?)。
養老4 (720)『日本書紀』成立(『大仏頂経』に基づく道慈による潤色)。
天平7 (735)玄昉帰朝(『掌珍論』伝来?)。
天平8 (736)中臣名代帰朝(『大仏頂経』再請来)。
この頃、最初の論争(三論・法相の僧を請集し『大仏頂経』の真偽について「検考」する)。
天平17 (745)中臣名代没。
宝亀3 (772)誡(戒)明、得(徳)清の入唐。
宝亀7 (776)『東大寺六宗未決義』申上。
宝亀10 (779)諸僧都等が大安寺に集まり、『大仏頂経』が偽経であると主張、戒明が連署を拒否。 思託、大仏頂行道。
延暦17 (798)詔(A)。
延暦20 (801)詔(B)。
延暦21 (802)詔(C)、(D)。最澄、高雄講経。
延暦22 (803)詔(E)。霊船入唐(慈蘊『法相髄脳』)。
延暦23 (804)詔(F)。
弘仁年間『掌珍量噵』
天長7 (830)天長勅撰六本宗書

この年表からもわかるように、この論争は天平・宝亀・延暦と三回の大きな盛り上がりがあるが、 そこで最も注目されるのが、戒明・徳清の入唐を契機とした宝亀年間の論争である。 戒明は大安寺の人で、論争の舞台も大安寺であった。戒明が『大仏頂経』を真撰と主張した根拠としては、 「唐大暦十三(778)年、広平皇帝親しく僧を請いて、大仏頂経を講ぜしむ」☆59という行事を 「唐に於いて見聞した」☆60からであるいう。

では、戒明が見聞したという講義は、どのようなものであったのだろうか。 唐における『大仏頂経』の研究については、『依憑天台集』に 「大唐大薦福寺仏頂宗沙門惟懿が天台義を引いて経疏ならびに鈔を造る」☆61ことについて、 「大仏頂経疏鈔上巻」の文が引用されているほか、承和五(838)年、円仁らと共に入唐した常暁(~865)による『常暁和尚請来目録』には、 「三論宗学頭法師等が請来を申し求め」たものとして三論の注釈書とともに、

大仏頂経疏一部六巻弘抗法師造
大仏頂経玄賛一部三巻惟愨法師造☆62

をあげていることから、戒明の頃にも講義を行うことができる人材は存在していたのであろう。 ところでこれら注釈類の将来の目的については、同目録に、

又空有両宗論真性理、大仏頂経為本模経、本雖先来其疏未有、於義難決。如今以此将正空有両家諍論義。 夫一翼若闕、空行何飛。況乃一乗奥理、義与文遠、不仮疏記微微無顕、雖有労載車。 冀以此俾補乎聖典。☆63

とあることからもわかるとおり、空有の論争における三論宗側の資料として『大仏頂経』を補う「疏記」等を将来し、 それによって「一乗奥理」を顕現せんとしたためであるという。 三時教判の解釈や空有の論争が、法蔵によって一乗了義・三乗未了義の文脈へと軌道修正されたことは先に述べたが、 戒明が見聞した唐における『大仏頂経』の講義もまた「一乗奥理」に関連するものであった可能性は充分考えられる。 『大仏頂経』は如来蔵思想を説く経典であるが、惟懿疏と天台文献との親近性や、 明代に至って智旭が天台教学に基づいた注釈を著していることなどから考えると、 その「一乗奥理」が天台教学に近い内容だった可能性も考えられる。中国における仏性論争と日本の最澄・徳一論争をつなぐ思想史的要因として、 筆者はかつて相部律宗と鑑真教団の存在を指摘したが☆64、 東アジア仏教の思想史的な研究を行ううえでも掌珍比量の存在は大きかったと言えるのではなかろうか。

4. まとめと今後の課題

以上、掌珍比量の受容と評価、解釈について、玄奘の将来時点から平安期の日本までの流れを素描した。 これによって、掌珍比量がこれまでの評価以上に思想史的に大きな意味を持つことが明らかになったと同時に、 より一層の検討が必要であることも明らかになったのではなかろうか。 また今回は一言するにとどまったが、掌珍比量と関係が深い玄奘の唯識比量の解釈については、 後日を期したいと考えている☆補注2。 諸賢の叱正を請いたい。


脚注

  1. 中村元「因明入正理論疏解題」, 『国訳一切経和漢撰述部 論疏部23』を参照されたい。
  2. 江島恵教, 『中観思想の展開 —Bhāvaviveka研究—』, (東京: 春秋社, 1980).
  3. 江島前掲書, p. xii.
  4. 江島前掲書, p. 15.
  5. 大正30, 268b.
  6. 平井俊榮, 『中国般若思想史研究 —吉蔵と三論学派—』, (東京: 春秋社, 1976), p. 237.
  7. 富貴原章信, 『日本唯識思想史』, (大雅堂, 1944. 東京: 国書刊行会, 1989. 本文中のページ番号は後者による), p. 125.
  8. 宗性『弥勒如来感応抄』巻五に文備の伝を載せる (平岡定海, 『日本弥勒浄土思想展開史の研究』, [復刊, 東京: 大蔵出版, 1977], p. 534)。
  9. 大正52, 930c-931b.
  10. 中央アジアにおける観仏信仰については、 Yamabe, Nobuyoshi. The Sutra on the Ocean-like Samadhi of Visualization of the Buddha: The Interfusion of Chinese and Indian Culture in Central Asia as Reflected in a Fifth Century Apocryphal Sutra. Ph.D. Dissertation, Yale University, 1999.を参照。
  11. 桑山正進氏は中央アジアにおけるこのような聖遺物・遺骨崇拝について、 「…玄奘当時まで一貫して反思索・反抽象の当地にあっては、玄奘が中国でしきりに求めたものがあるはずはない」 (「玄奘三蔵の形而下」, 『人物 中国の仏教 玄奘』〔東京: 大蔵出版, 1981〕, p. 114)と述べられているが、 これは唯識思想を主知的、学問的に捉えてきた近代仏教学のバイアスによるものであろう。 Yogācāra の体験主義的傾向については、 『新国訳大蔵経瑜伽・唯識部12 大乗荘厳経論』, (東京: 大蔵出版, 1993)中の袴谷憲昭氏による解題を参照。
  12. 吉村誠, 「玄奘の大乗観と三転法輪説」, 『東洋の思想と宗教』16号, (東京: 早稲田大学東洋哲学会, 1999), pp. 66-67.
  13. 大正50, 244b-c.
  14. ただし、現存する玄奘伝の中で最も古い興聖寺本には、このエピソードは見えない。 藤善真澄, 『道宣伝の研究』, (京都: 京都大学学術出版会, 2002) 参照。
  15. 韓仏全1, 290b-c.
  16. 吉村誠氏はこの「三論」を「三輪」すなわち三轉法輪説と解しているが (「円測の三轉法輪説の解釋について」, 『한극불교학결집대회논집(韓国仏教学結集大会論集)』, Vol. 2, No. 1, 2004, p. 122)、ここではその解釈はとらない。
  17. 卍続79, 488b-489a.
  18. 大正33, 431a.
  19. 大正44, 115b.
  20. 江島前掲書, p. 205.
  21. 善珠『唯識分量決』, 大正71, 449a-b.
  22. 太賢『成唯識論学記』卷中本, 韓仏全3, 557c.
  23. ちなみに基は、玄奘の唯識比量に随一不成過と相符極成過がないことを述べている (『因明入正理論疏』中本, 大正44, 115c)。
  24. 韓仏全3, 483b-484a.
  25. 大正30, 225a.
  26. 『判比量論』に関する最近の重要な研究成果として、 김성철, 『원효의 판비량론 기초 연구』, (지식산업사, 2003)など。
  27. 大正71, 449c. 道証の引く『掌珍論』は大正30, 268c、 『大乗広百論釈論』は大正30, 225a にある文の取意。
  28. 師茂樹, “Chikō's Criticism of the Hossō Sect, and Wŏnhyo's Influence,” 『印度学仏教学研究』50-2, 2002.
  29. 江島前掲書, p. 203. John P. Keenan, Dharmapala's Yogacara Critique of Bhavaviveka's Madhyamika Explanation of Emptiness: The Tenth Chapter of Ta-Ch'Eng Kuang Pai-Lun Shih Commenting on Aryadeva's Catuhśataka Chapter Sixteen, Edwin Mellen Press, 1997.も参照)。 また、目録中には元暁『清辨護法空有諍論』という書名が残されている。
  30. 大正44, 115b.
  31. 大正31, 16a.
  32. 大正43, 359a.
  33. 江島前掲書, p. 140.
  34. 武村尚邦, 『因明学 起源と変遷』, (京都: 法蔵館, 1986), p. 30.
  35. 善珠は引用の際「利見・希遠法師等、述賢師意云…」とするため、太賢の説ではない可能性もある。
  36. 李萬氏は義演を新羅の義賓とする (『한국유식사산사』, [藏經閣, 2000], pp. 258-259)。
  37. 石田茂作, 『写経より見たる奈良朝仏教の研究』, (東京: 東洋文庫, 1930), p. 71. ただし、ここでは「清辨菩薩」と「分別明菩薩」とが別掲されているが、この「分別明菩薩」とは清辨の異名とされている (江島前掲書, p. 3)。 なお、『東大寺六宗未決義』には「大仏頂経疏分別明菩薩」(『大日本仏教全書』29, 2b)とあることから、 清辨に『大仏頂経』の注釈書があると考えられていた可能性も否定し得ない。
  38. 太田久紀, 「日本唯識研究 ―空教の位置づけ―」, 『駒澤大学仏教学部論集』31, 1973、 同「日本唯識研究 ―他教学とのかかわり―」, 『印度学仏教学研究』28-1, 1979、 平井俊栄「平安初期における三論・法相角逐をめぐる諸問題」, 『駒澤大学仏教学部研究紀要』37, 1978、 松本信道「『大仏頂経』の真偽論争と南都六宗の動向」, 『駒沢史学』33, 1985、 同「『延暦僧録』戒明伝の資料的特質」, 『駒沢史学』37, 1987、 同「三論・法相対立の始源とその背景 ―清弁の『掌珍論』受容をめぐって」, 『三論教学の研究』, (東京: 春秋社, 1990)、 同「空有論争の日本的展開」, 『駒澤大学文学部研究紀要』49, 1991、 同「大安寺三論学の特質 ―道慈・慶俊・戒明を中心として―」, 『古代史論叢』, 1994など参照。
  39. 「延暦一七年九月壬戌詔」, 『類聚国史』179・仏道部6, 『国史体系』6, p. 237.
  40. 「延暦二〇年四月丙午」, 『類聚国史』187・仏道部14, 『国史体系』6, p. 314.
  41. 「延暦二一年正月庚午勅」, 『類聚国史』187・仏道部14, 『国史体系』6, p. 216.
  42. 太政官符「応正月御斎会及維摩等会均請六宗学僧事」, 『類聚三代格』2, 『国史体系』25, p. 55.
  43. 「延暦二二年正月戊寅勅」, 『類聚国史』179・仏道部6, 『国史体系』6, p. 237.
  44. 「延暦二三年正月癸未勅」, 『類聚国史』179・仏道部6, 『国史体系』6, p. 238.
  45. 曾根正人, 『古代仏教界と王朝社会』, (東京: 吉川弘文館, 2000), p. 67.
  46. 師前掲脚注28論文参照。
  47. 師茂樹, 「慈蘊『法相髄脳』の復原と解釈」, 『東洋大学大学院紀要』35, 1999.
  48. 平井前掲「平安初期における三論・法相角逐をめぐる諸問題」, p. 82.
  49. 大正65, 268c.
  50. 大正65, 268c.
  51. 『伝教大師全集』2, 700. なお斎藤明氏は、清辨が一乗に反すると批判されていたことを指摘している (「一乗と三乗」, 『岩波講座東洋思想』10, [東京: 岩波書店, 1989], pp. 67-68)。
  52. 『常暁和尚請来目録』(大正55, 1069b)
  53. 『一乗要決』巻上(大正74, 341a)
  54. 大正35, 111c.
  55. 大正35, 112a.
  56. 日本人以外の文献で、掌珍比量と『大仏頂経』とを関連させて論じているのは、 管見の範囲では見登『大乗起信論同異略集』のみである(韓仏全3, 691-692)。 ただし、崔鈆植「『大乗起信論同異略集』の著者について」, 『駒沢短期大学仏教論集』7, 2001 によれば、 見登は来日して『大乗起信論同異略集』を書いた可能性が高いとのことであり、 そうだとすれば『大仏頂経』への言及は崔氏の説を傍証することになるかもしれない。
  57. 大正19, 125c.
  58. ただし『大仏頂経』について善珠は「仏語」と見なしており(大正71, 450)、 同時代の真偽論争との関係は検討を要する。
  59. 『日本高僧伝要文抄』3, 『大日本仏教全書』62, p. 57a.
  60. 松本前掲「『延暦僧録』戒明伝の資料的特質」, p. 37.
  61. 『伝教大師全集』3, p. 360.
  62. 大正55, 1069a. なお、惟懿の著作については、幾つかの逸文によってその内容を類推することができる。
    (1)大唐大薦福寺仏頂宗沙門惟懿引天台義造経疏并鈔/其大仏頂経疏鈔上巻云 「又止観之門、三乗必進之路、無有不遊斯径路、而証菩提者哉。故知、其門道之枢要、又先賢所習、皆約教門。天台広集四乗、 撰十巻大止観。両巻小止観、広述境界。事煩不能載」云云。又云「若天台止観文中説〈発見惑、則従多聞発、則先断見。 病在惑従禅発、此則修後方有之。所以前三陰止、且求定。縦有観少、約定多行、陰後観多。所以観止立見病〉。 天台文中、則将六師比論、亦好」云云(『依憑天台集』、『伝教大師全集』3, p. 360.)
    (2)今案。唐大興福寺惟愨法師疏云「唐神龍元年五月二十三日、中印度沙門般刺密帝、於広州制止寺道場、 対挙梵本烏萇国沙門弥伽釈迦、訳玆梵語房融筆受」已上」(『大乗三論大義鈔』巻三、大正70, 151c)
    (3)唐大興福寺惟愨法師、釈此偈云「両祛真妄、真妄二号、相仮立名、妄疾既除、真亦不留、双排両名、円階妙体」已上 (同、大正70, 152a)
    また、卍続八九所収の可度『楞厳経箋』には「西京大興福寺沙門 惟懿 科」とあり、 ごく短いものではあるが惟懿のものと思われる科文が残されている。この『楞厳経箋』中、 『大仏頂経』巻五冒頭の偈頌「真性有為空 縁生故如幻 無為無起滅 不実如空花」に対する惟懿の科文の中に「次両祛真妄」 (卍続89, 113a)とあり、わずか四文字ではあるが(3)に重なる文があることから、 両者が同じ文献である可能性は高いのではないかと思われる。 以上の問題を含めた、唐代における『大仏頂経』注釈書の問題については、きわめて興味深い題材であるため、 今後あらためて取り組みたいと思う
    ☆補注1
  63. 大正55, 1069a.
  64. 師茂樹, 「相部律宗定賓の行状・思想とその日本への影響 ―『四分律疏飾宗義記』に見える仏身論を中心に―」, 『戒律文化』2, 2003.

補注

以下の補注は論文が出た後のもの。

  1. 師茂樹「楞厳経惟慤疏の逸文をめぐる二、三の問題」 (『禪學研究』特別号、2005年7月、pp. 221-234)参照。
  2. 師茂樹「玄奘の唯識比量と新羅仏教 日本の文献を中心に」 (2004금강대학교 국제불교학술회의(金剛大学校国際仏教学術大会)予稿集、2004年10月)


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