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以下のテキストは、『한극불교학결집대회논집(韓国仏教学結集大会論集)』Vol. 2, No. 1、 2004年5月、pp. 572-584に掲載された論文の提出原稿をHTML化したものです。 その他、実際に掲載されたものと異なる場合があると思いますが、ご了承ください。


清辨の比量をめぐる諸師の解釈
『唯識分量決』を中心に このエントリーを含むはてなブックマーク

師 茂樹(花園大学

問題の所在

本稿では、未だ不明確な部分が多い7~8世紀東アジア仏教界の状況、特に唯識思想の学系を解明することを目指し、 清辨(Bhāvaviveka、c.490-570)の比量の受容および諸師の解釈を検討する。 清辨の比量を用いる理由は、

  1. 玄奘以降の唯識思想に関心が高かった諸師において、広く関心が持たれたテーマであること、
  2. したがってこれまでほとんど研究されてこなかった人々と基・円測・元暁などを比較できるテーマであること、
  3. さらに清辨をめぐる論争が一乗・三乗の論争に接続する可能性があり、より大きな思想史的位置づけが期待されること、

等々の点があげられる。

本稿では特に、善珠(723-797)『唯識分量決』に引かれる諸師の説をとりあげ、当時の日本において持たれていた学系意識を検討することで、 上記の目的に近づく最初の手がかりとする。その理由は、

  1. 奈良~平安初期の日本において清辨比量をめぐる論争がおきており、思想史的に重要であること、
  2. その結果、清辨比量に関するテキストがほとんど現存していない中、日本のテキストに残された逸文を利用できること、

などをあげられる。

清辨比量の東アジアにおける受容

清辨の比量について

清辨の因明については、江島恵教氏による包括的な研究☆1をはじめとして、 これまで多くの研究が積み重ねられてきた。江島氏はその特長を、

論理学一般は存在者を実体的・固定的に把握する傾向をもつ。他方空性の考えは、 観念・言語によって存在者が実体的・固定的に把握されることを拒否する。 論理学と空性の考えの間にあるこの緊張関係を解決するために、Bhāvavivekaは、 空性を論証するための推論式に、まず“勝義において”という限定づけを附し、さらに空性論証に伴う否定判断のすべてを、 何の定立をも含意しない非定立的否定(prasajya-pratisedha)と規定したのである。☆2

と述べている。本稿でとりあげるのは『大乗掌珍論』冒頭にある、

真性有為空  如幻縁生故
無為無有実  不起似空華☆3

という偈頌で述べられた比量のことであるが、これも最初の「真性」が「勝義において」という限定句に相当する。

このような清辨の因明の東アジアにおける受容についてはそれほど注目されてこなかったと言って良い。 以下ではまず、清辨とその因明が玄奘以降、東アジアにどのように受容され評価されたかについて概観したい。

玄奘の評価

玄奘と清辨との関係を考える上で見逃すことができないのは、玄奘の作とされ「唯識比量」と言われる次のような比量である。

真故、極成色不離於眼識。 自許初三摂、眼所不摂故。 猶如眼識☆4

江島恵教氏はこの玄奘の比量について、最初の「真故」が清辨の「勝義において」という限定句に相当するとし、 したがって「玄奘自身がそのような推論式を使用したであろうことを認めねばならない」☆5と述べている。

加えて、『大唐西域記』巻十・駄那羯磔迦国の条にある清辨に関する説話☆6にも注目したい。 大略は以下のとおりである。

清辨菩薩は度量が広く徳の深い人で、外見はサーンキヤの服を着ていたが、心の中では龍樹の中観派の学問を修めていた。 清辨はマガダ国の護法菩薩は仏法を弘め、門下に数千人いるということを聞き、談義したいと思ってパータリ城へ出かけていったが、 遂に会えなかった。疑問を晴らすのは弥勒のほかにないと思い、清辨は弥勒に見えんがため、観音菩薩の像の前で食を絶ち陀羅尼を一心に唱えると、 三年後に観音がその姿を現す。観音は兜率天に転生することを勧めるが、清辨は現身のままで弥勒に会うことを主張する。 すると観音は、駄那羯磔迦国の南の山にいる執金剛神のところで「執金剛陀羅尼」を唱えるべし、と指示し、その通りに勤めると執金剛神が現れる。 執金剛神は清辨に秘法を授けた後、巌石の中に阿修羅宮がありそこで弥勒の当来を待つことを教える。 三年の行の後、巌石の入口が開いたのであるが、清辨は入ろうとする直前にいっしょに入らないかと群衆を誘う。 群衆は恐れて「あの穴には毒蛇がいて、入れば命を落す」と言い、わずか六人のみが清辨に随ったが、巌石が閉った後、 群衆は前言を悔いたという。

原文では、清辨を「雅量弘遠、至徳深邃」であると褒めたたえており、 弥勒仏の当来を待つという行為も群衆に肯定的に捉えられていたように描写されている。 先に述べた清辨の因明の利用に加えて、玄奘の弥勒信仰などをあわせて考えると、 清辨に対する玄奘の評価が低くなかったことを示しているように思われる。

しかし、玄奘が中観派に対して無批判であったと言うわけではない。吉村誠氏が指摘するように☆7、 玄奘が空有の論争をしたという逸話が『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』に見えるからである。

時戒賢論師遣法師、為衆講摂大乗論・唯識決択論。時大徳師子光、先為衆講中・百論、述其旨破瑜伽義。 法師妙閑中・百、又善瑜伽、以為聖人立教各随一意不相違妨、惑者不能会通謂為乖反。此乃失在伝人、豈関於法也。其局狹、数往徴詰、復不能酬答。 由是学徒漸散而宗附法師。法師又以中・百論旨、唯破遍計所執、不言依他起性及円成実性。 師子光不能善悟、見論称一切無所得謂瑜伽所立円成実等、亦皆須遣所以毎形於言。法師為和会二宗、言不相違背、乃著会宗論三千頌。 論成呈戒賢及大衆、無不称善、並共宣行。師子光慚嘴、遂出往菩提寺。☆8

すなわち、『中論』『百論』をもとに瑜伽義を批判する師子光という大徳に対して、 玄奘が三性説をもとにした「二宗を和会」する説をもってこの大徳を詰問したというのである☆9。 これに関連して、円測『解深密経疏』巻五においては、「西方」における異説をあげる中で、

此地諸師、自有両釈。一云、三論但遣所執。一云、具遣三性、如掌珍等。☆10

と見え、遍計所執性のみを破する三論の諸師と、『掌珍論』に依拠して三性すべてを空ずる諸師がいたことを伝えている。 前者は『慈恩伝』において玄奘が『中論』『百論』を以て「唯だ遍計所執のみを破し、依他起性及び円成実性を言わず」と評しているのと呼応するだろうから、 玄奘およびその門下においては中観派に対して三論系と清辨系とを分けて把握する傾向があった可能性も考えられる。

玄奘以降の評価の変遷

次に、本稿のテーマである玄奘以降の諸師における評価について、従来の説を中心に概観する。

平井俊榮氏は『掌珍論』について「訳者が玄奘であることから、 これを研究註疏したのは法相系の学僧が多かったのではないかと思う」☆11と述べている。 そこで清辨『掌珍論』に関する注釈書の存在について見てみると、 文備・靖邁・神泰・元暁・太賢らの作を目録中に見出すことができるものの☆12、 残念ながらすべて散佚しているようである。 この中、「(玄奘)三蔵の同学」☆13とされる文備、新羅に留まった元暁、 時代が下る太賢らを玄奘門下とは言うのは不自然であろうし、 さらに玄奘門下に法宝のような法相教学への批判者がいたことなども併せて考えると、 平井氏の言うように「法相系の学僧が多かった」と単純に言い切れないのではないかと思われる。

さて、法相宗の初祖であり玄奘の一番弟子と見なされている基が、清辨の比量についてどのような評価をしているかを見てみると、 先に見た師・玄奘の唯識比量に対しては、

凡因明法所能立中、若有簡別、便無過失。☆14

と述べ、「真故」という限定語(簡別)について肯定的な解釈をしているように見える。

しかし、『成唯識論』の注釈書における基の態度は、これとは全く逆のものである。すなわち、『成唯識論』巻三に、

有執大乗遣相空理為究竟者、依似比量撥無此識及一切法。☆15

とあるのに対して、基『述記』では、

述曰。第五清辨無相大乗。於俗諦中亦説依他・円成有故、真諦皆空故、今言空者遣遍計所執。 彼執此文為正解故、彼依掌珍「真性有為空」等似比量、撥無此識及一切法皆言無体。
言「似比量」者、謂約我宗真性有為無為非空不空、有法一分非極成過。汝不許有我勝義故、四種世俗・勝義之中各随摂故。 若随小乗、彼転実有、便違自宗、若随汝自宗勝義空者、我不許汝空勝義故、亦非極成。 又以我説若約世俗、無為有為二倶是有、若約勝義、非空不空。 汝今説空、即有違自教之失、名似比量。☆16

と注釈しているのである。ここでは『成唯識論』で「似比量」とされているものが清辨比量であると見なし、 それが命題の主語の一部について承認されていないという過失(有法一分非極成過)を含んだ誤った推論(似比量)であることを示して批判している。 このような基の二面的な態度について江島氏は、

中国の学匠慈恩大師窺基(632-682)は、「勝義において」という限定づけについて一貫した考えをもっていなかったようである。 (中略)ここには、慈恩の論理学上の誤解の問題(中村『国訳』解題pp. 6~7)と、 清辨の推論式がDignāgaの論理学を越える問題を含んでいることについての彼の無知とが重なりあっていると言えよう。☆17

と述べるが、武村尚邦氏が指摘するように☆18 中国における因明研究が「論諍の場において相手をやりこめる方法技術」という性質を持っていた点も考慮せねばなるまい。

さらに時代が下ると、このような批判的な態度はより鮮明になる。 先に引いた『大唐西域記』の記事を下敷にしたと考えられる如理『成唯識論疏義演』巻八本下の説話☆19では、 玄奘の評価とは正反対のネガティブな表現になっている。

ここで、師である玄奘と正反対のこのような評価がなぜ作られたのか、という点について検討せねばなるまい。 まず想起されるのは、護法・清辨および戒賢・智光による空有の論争の伝説である。 これについては先学によって様々な見解が述べられているが、先の『大唐西域記』の記事を信頼すれば、 護法・清辨の間に論争はなかったことになろう☆20

また、戒賢・智光の論争については、法蔵『華厳経探玄記』巻一に地婆訶羅三蔵からの伝聞として引かれる次の文が大きな典拠となっている。

戒賢即遠承弥勒・無著、近踵護法・難陀、依深密等経・瑜伽等論、立三種教。 謂仏初鹿園説小乗法、雖説生空、然猶未説法空真理、故非了義、即四阿含等経。 第二時中、雖依遍計所執自性説諸法空、然猶未説依他・円成唯識道理、故亦非了義、即諸部般若等教。 第三時中、方就大乗正理、具説三性・三無性等唯識二諦、方為了義、即解深密等経。 (中略)第二智光論師遠承文殊・龍樹、近稟提婆・清辯、依般若等経・中観等論、亦立三教。 謂仏初鹿園為諸小根説小乗法、明心境倶有。 第二時中為彼中根説法相大乗、明境空心有唯識道理、以根猶劣未能令入平等真空、故作是説。 於第三時為上根説無相大乗、辯心境倶空平等一味、為真了義。 (中略)此三教次第、如智光論師般若灯論釈、具引蘇若那摩訶衍経、此云大乗妙智経、此昔所未聞也。☆21

注目すべきは、法蔵がこの智光の三転法輪を、小乗→三乗→一乗という発展段階としても捉えていたということである。

先摂機者、初時唯摂二乗人機、第二通摂大小二機。以此宗計一分二乗不向仏果。 三唯摂菩薩、通於漸・頓、以諸二乗悉向仏果無異路故。二約教者、初唯摂小乗、次通三乗、後唯一乗。☆22

これは、法蔵が法相教学への批判という意識をもって、 空有の論争というテーマを踏み越えてまでも付加したものであると考えるのが穏当なのではないかと思うが、 後の日本における空有の論争の流れを考える際、法蔵のこの解釈は思想史的に大きな意味を持つ。

日本における評価

最後に、日本の状況について簡単に見ておきたい。

先に円測が三論と『掌珍論』を区別している文を見たが、奈良時代の日本においては清辨とその著作が三論宗に属するものとされてきたことは、 正倉院文書の「厨子絵像并画師目録」を見てもわかる。

第三厨子 三論宗 秦堅魚
梵天 琉璃光菩薩 文殊師利菩薩 維摩詰菩薩居士形  師子吼菩薩 帝釈 増長天王 広目天王 清辨菩薩僧劣  分別明菩薩僧壮 提婆菩薩僧老 龍樹菩薩僧大老  須菩提僧壮 常啼菩薩僧中 多聞天王 持国天王☆23

したがって日本においては、清辨比量をめぐる激しい論争が法相・三論両宗で繰り広げられ☆24、 智光『般若心経述義』☆25・善珠『唯識分量決』・『東大寺六宗未決義』・ 慈蘊『法相髄脳』☆26・ 秀法師『掌珍量噵』・護命『大乗法相研神章』・玄叡『大乗三論大義鈔』などの文献が残された。 また『大仏頂経』巻五冒頭の偈に、掌珍比量とほぼ同じ 「真性有為空 縁生故如幻 無為無起滅 不実如空花」☆27という表現が見られるため、 この経典の真贋をめぐる論争も展開された☆28

この論争で特に注目されるのは、弘仁年間に書かれたとされる『掌珍量噵』である。 これは平井俊栄氏によって「隠れた主題が仏性論にあった」☆29と指摘されているのであるが、 それは次の箇所から読み取ることができる。

凡清辨義、玄奘所伝、何故余師輒加言乎。 (中略)又智論・中論・十二門論、此三部論龍樹造。百論二巻及広百論並提婆造。除玄奘所訳広百論、自余三論、並後秦弘始年中羅什訳。 羅什不立悉有仏性義。今三論師受誰所説立悉有仏性。☆30

ここでは、三論宗が所依としている漢訳『大智度論』『中論』『十二門論』『百論』『広百論』のうち、 前四作が羅什訳、『広百論』のみが玄奘訳であるが、羅什と玄奘とは共に悉有仏性義を立てることがなかったのにも関わらず、 今の三論家は誰の所説をもとに悉有仏性義を立てているのか、と述べられている。 この発言の背景には、神泰と義栄による次のような論争が念頭にあったのであろう。 すなわち、『一乗要決』巻下・大文第六の末尾に、

泰法師云「羅什法師、親従西国歴事聴受、知仏性義不遍有情。 道生既羅什学徒、公違什師立諸衆生皆有仏性。故什法師、集衆羯磨擯出道生。道生去後、什師尚在」云云。 義栄法師弾泰師云「按隋朝費長房年録云、羅什偽秦姚興弘始十一年、東晋安帝義熈四年戌申死。然竺道生被擯、宋文帝時也。 如此羅什死後十六年、方至文帝。如何得言羅什未死、道生見擯。又如君言道生見擯、謂当道理。 道生伝云『見擯之時、法師誓言〈我所説合理者、願於現身得癘病〉』等。 若不乖理、願執塵尾而終。後経文来至、如願而死」云云。☆31

とあるように、神泰は鳩摩羅什が一切の成仏を認めていなかったという説を唱え、それに対して義栄が史伝を引いて反論をしているのである。 ここでは羅什とその弟子道生との関係について議論されており、空有の論争に関する内容は見られないが、 平安初期の日本では、成仏に関する羅什の立場が日本三論宗の唱える悉有仏性説の是非を巡る議論の材料として扱われているのは興味深い。

この他にも、最澄『決権実論』において清辨が「内証の一乗」を説く論師として数えられていたり☆32、 『大仏頂経』の注釈書を空有の論争のための「一乗奥理」を顕すものと評価されていたりする☆33などの例がある。 また逆に、徳一が霊潤のことを「三論宗の人」と見なしていたことを示唆する例もある☆34。 これらの背景に、先に指摘した法蔵の解釈があったことは容易に想像できる。 日本では、清辨をめぐる空有の論争と仏性論争、三一論争が重なり合っていたのである。

『唯識分量決』等に見られる諸師の解釈

『唯識分量決』比量部分の構成

善珠『唯識分量決』は、その名の通り四分説と掌珍比量等に関して、当時諸説紛々としていた中で取るべき説を決する、 という趣旨の書物である。 本稿では後者の比量に関する章の中、掌珍比量に関する「掌珍論為量顕過決」について見る。その構成は以下の通りである。

  1. 序文(靖邁『掌珍論疏』の引用)
  2. 真性有法決
  3. 三支顕過決
  4. 対敵顕過決
  5. 余量同異決
  6. 文外顕疑決

この中、諸師の説が対比的に紹介されているのは「真性有法決」「三支顕過決」「余量同異決」の三箇所である。 ここには唐・新羅の諸師の説が引用されており、その多くが逸文であることから貴重な資料であると同時に、 当時の日本における受用態度を知ることができる点でも重要である。

掌珍比量に対する諸師の解釈

以下の表は、『唯識分量決』を中心に、同様の議論があれば同時代の文献からも拾い集め、まとめたものである (無印…掌珍論為量顕過決、*…『法相灯明記』)。

真性有法決三支顕過決余量同異決
靖邁『掌珍論疏』不入

円測(613-696)
宗有相符極成過
元暁(617-686)『判比量論』

神昉(-650-)『唯識文義記』不入
基(632-682)不入*宗有法一分不極成過(別)
道証(640-710?)

慧沼(649-714)『成唯識論了義灯』不入

憬興(-681-)『唯識論貶量』
智周(677-733)『成唯識論演秘』

太賢(8C)/利見・希遠『大乗心路章記』☆35不入

義演/義賓*☆36 『成唯識論枢要記』

神廓『無性摂論疏』
因有随一不成過
善珠(723-797)不入

元興寺*宗有法一分不極成過
慚安/興福寺*不入宗有法一分不極成過
行賀(725-803)『唯識僉記』*不入宗有法一分不極成過

まず「真性有法決」であるが、これは「真性」という限定句が有法(主語)に入るか入らないかという問題について諸説を挙げたものである。 『法相灯明記』の該当箇所は、有法一分不極成過が起こる範囲が「真性」の二字においてなのか「真性有為」の四字においてなのか、 という設問であるが、これもやはり「真性」を有法と見なすかどうかという議論として解釈できる。 入ると見なすグループの中に憬興、義賓の新羅僧と元興寺が含まれているが、法相宗の日本伝来を考える上で興味深い。

次に「三支顕過決」であるが、掌珍比量の過失が三支のどこにあるかについて諸説を挙げたものである。 ここでは多くが有法一分不極成過、 すなわち主張命題(宗)の主語(有法)に立論者と反論者の間で承認されていない(不極成)部分があるという過失であるとしているが、 神廓は理由(因)において反論者が承認しない理由はその資格がないという(他)随一不成過に陥っていると解釈したとされる。 一方、円測は相符極成過、すなわち主張命題が立論者と反論者との間で承認されてしまっている(相符極成) ため議論する意味がなくなってしまった過失であると主張したとされる。 裏返せば、円測は清辨比量が内容的には過失がないとしていたようにも見なされるのである。 ちなみに基は、玄奘の唯識比量に随一不成過と相符極成過がないことを述べている☆37

最後に「余量同異決」であるが、ここでは『大乗広百論釈論』中の、

又所執境略有二種。一者有為、二者無為。諸有為法、従縁生故、猶如幻事、非実有体。 諸無為法亦非実有、以無生故、譬似亀毛。☆38

という比量や、先に引いた『大仏頂経』の比量と、掌珍比量との同異が論じられている。 この中諸師の説が比較されているのは『大乗広百論釈論』についてのみであるが☆39、 『大乗広百論釈論』は護法の作とされるため、その同異が教判的な関心を呼んだと思われる。 かつて、智光の激しい法相宗批判の背景として元暁の『大慧度経宗要』の存在を指摘したが☆40、 『判比量論』においても同様の態度を看取できる。これは、やはり新羅系の神昉、および先に見た円測との関連が注目される。

以上、ごくわずかな例であるが、善珠らが持っていたであろう系統意識をおぼろげながら見出しうるのではなかろうか。


  1. 江島恵教, 『中観思想の展開 —Bhāvaviveka研究—』, (東京: 春秋社, 1980).
  2. 江島前掲書, p. xii.
  3. 大正30, 268b.
  4. 大正44, 115b.
  5. 江島前掲書, p. 205.
  6. 大正52, 930c-931b.
  7. 吉村誠, 「玄奘の大乗観と三転法輪説」, 『東洋の思想と宗教』16号, (東京: 早稲田大学東洋哲学会, 1999), pp. 66-67.
  8. 大正50, 244b-c.
  9. ただし、現存する玄奘伝の中で最も古い興聖寺本には、このエピソードは見えない。 藤善真澄, 『道宣伝の研究』, (京都: 京都大学学術出版会, 2002) 参照。
  10. 卍続34, 828a.
  11. 平井俊榮, 『中国般若思想史研究 —吉蔵と三論学派—』, (東京: 春秋社, 1976), p. 237.
  12. 富貴原章信, 『日本唯識思想史』, (大雅堂, 1944. 東京: 国書刊行会, 1989. 本文中のページ番号は後者による), p. 125.
  13. 宗性『弥勒如来感応抄』巻五に文備の伝を載せる (平岡定海, 『日本弥勒浄土思想展開史の研究』, [復刊, 東京: 大蔵出版, 1977], p. 534)。
  14. 大正44, 115b.
  15. 大正31, 16a.
  16. 大正43, 359a.
  17. 江島前掲書, p. 140.
  18. 武村尚邦, 『因明学 起源と変遷』, (京都: 法蔵館, 1986), p. 30.
  19. 卍続79, 488b-489a.
  20. ただし、江島恵教氏は『大乗広百釈論』第十巻で護法が清辨を論駁していることを指摘している (江島前掲書, p. 203。John P. Keenan, Dharmapala's Yogacara Critique of Bhavaviveka's Madhyamika Explanation of Emptiness: The Tenth Chapter of Ta-Ch'Eng Kuang Pai-Lun Shih Commenting on Aryadeva's Catuhśataka Chapter Sixteen, Edwin Mellen Press, 1997.も参照)。 また、目録中には元暁『清辨護法空有諍論』という書名が残されている。
  21. 大正35, 111c.
  22. 大正35, 112a.
  23. 石田茂作, 『写経より見たる奈良朝仏教の研究』, (東京: 東洋文庫, 1930), p. 71. 分別明菩薩については脚注28を参照。
  24. 太田久紀, 「日本唯識研究 ―空教の位置づけ―」, 『駒澤大学仏教学部論集』31, 1973、 同「日本唯識研究 ―他教学とのかかわり―」, 『印度学仏教学研究』28-1, 1979、 平井俊栄「平安初期における三論・法相角逐をめぐる諸問題」, 『駒澤大学仏教学部研究紀要』37, 1978、 松本信道「『大仏頂経』の真偽論争と南都六宗の動向」, 『駒沢史学』33, 1985、 同「『延暦僧録』戒明伝の資料的特質」, 『駒沢史学』37, 1987、 同「三論・法相対立の始源とその背景 ―清弁の『掌珍論』受容をめぐって」, 『三論教学の研究』, (東京: 春秋社, 1990)、 同「空有論争の日本的展開」, 『駒澤大学文学部研究紀要』49, 1991、 同「大安寺三論学の特質 ―道慈・慶俊・戒明を中心として―」, 『古代史論叢』, 1994など参照。
  25. 師茂樹, “Chikō's Criticism of the Hossō Sect, and Wŏnhyo's Influence,” 『印度学仏教学研究』50-2, 2002.
  26. 師茂樹, 「慈蘊『法相髄脳』の復原と解釈」, 『東洋大学大学院紀要』35, 1999.
  27. 大正19, 125c.
  28. 『東大寺六宗未決義』には「大仏頂経疏分別明菩薩」(『大日本仏教全書』29, 2b)とあるが、 この「分別明菩薩」とは清辨の異名とされている(江島前掲書, p. 3)ことから、 清辨に『大仏頂経』の注釈書があると考えられていた可能性も否定し得ない。 ただし、上に引いた「厨子絵像并画師目録」においては、「清辨菩薩」と「分別明菩薩」とが別掲されているため、断定は難しい。
  29. 平井前掲「平安初期における三論・法相角逐をめぐる諸問題」, p. 82.
  30. 大正65, 268c.
  31. 大正65, 268c.
  32. 『伝教大師全集』2, 700. なお斎藤明氏は、清辨が一乗に反すると批判されていたことを指摘している (「一乗と三乗」, 『岩波講座東洋思想』10, [東京: 岩波書店, 1989], pp. 67-68)。
  33. 『常暁和尚請来目録』(大正55, 1069b)
  34. 『一乗要決』巻上(大正74, 341a)
  35. 善珠は引用の際「利見・希遠法師等、述賢師意云…」とするため、太賢の説ではない可能性もある。
  36. 李萬氏は義演を新羅の義賓とする (『한국유식사산사』, [藏經閣, 2000], pp. 258-259)。
  37. 『因明入正理論疏』中本(大正44, 115c)
  38. 大正30, 225a.
  39. 『大仏頂経』について善珠は「仏語」と見なしており(大正71, 450)、 同時代の真偽論争との関係は検討を要する。
  40. 師前掲2002論文


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