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所収:『花園大学文学部研究紀要』35、2003年3月
※ 本テキストと、実際の論文との間で誤差があるかもしれませんのでご注意下さい。また、ご叱正の点、お気づきの点等がございましたら、ご連絡下されば幸甚です。
玄奘三蔵のもたらした新訳唯識経論を受け、東アジアで発生、発展した唯識学派、所謂法相宗の思想については、これまで『成唯識論』とその注釈書を中心に多くの研究が積み重ねられてきた。しかしその評価を見てみると、「学問仏教」あるいは仏教の基礎学といった位置づけを与えられ、それ以外の宗教的な活動については評価されてこなかったか、不当に無視されてきたように思う。他の宗派・学派でも高度に学問的な著作が多数作られたにも関わらず、なぜ法相宗(や南都諸宗)だけが「学問仏教」という評価をされているのだろうか。
そのことを考える上で参考になるのが、薬師寺出身で法相宗を学んだとされる行基の評価である。一例をあげれば、吉田靖雄氏は行基と法相教学との関連について、「仏性の有無は、宗教的資質の問題であって、現実生活の身分や格差にかかわるものではないが」と断りつつ次のように述べる。
神亀四(七二七)年、行基の起工と伝える大野寺の土塔(大阪府堺市土塔町)からは、数多くの人名を刻した瓦が出土して、行基の信奉者たちの具体名が明らかになった。そこには氏姓名を記したもののほか、瓦に氏も姓も記さず名のみを記した人々がいた。当時賤民とされた人々は氏も姓もなく名のみを称していた。瓦に氏も姓も記さない人々がすべて賤民奴婢であったわけではないだろうが、それに類するような身分であったわけではないだろうが、それに類するような身分であった可能性はあり、もしそうだとしたら、行基は先天的に成仏の可能性のない人間の存在を認めず、一切の衆生は悉く仏性ありと説く摂論宗系の唯識学の立場をとっていたことになる。道昭は五性格別説を立てる法相唯識学の導入者であるから、仏教学の立場が異なり、師弟の関係はないと言えるだろう。
松本史朗氏が鋭く指摘したように*1、単に一乗思想であるということだけで差別思想という糾弾から逃れられるわけではないし、ましてや五姓各別説を支持していることが即座に人々への差別的態度と結び付けられることは――吉田氏に限らず多くの研究者、仏教者に見られる発想であるが――短絡と言わざるを得ない。このように五姓各別説の存在が法相宗を「学問仏教」、すなわち非・宗教的な学派と見なす原因となっている現状に加え、玄奘とその門下が国家の中枢に近い位置で活動していたことや、南都仏教の所謂「国家仏教」的イメージによって、ますますこのような評価を固めることになったことは想像に難くない(宗教と哲学・思想・学問などとを分離して考えようとする近代的な思考方法を、その背景に加えてもよいかもしれない)。しかし逆に、国家仏教であったからこそ民衆教化に力を注ぐこともあるだろうし、五性各別説を信じていたからこそ無性有情に対して救いの手を差し伸べようとしたのだ、と発想することもできるはずである。石井公成氏が奈良時代に日本の各地で『大般若経』や『瑜伽論』『法華玄賛』『解深密経』などが民間で書写されたことを指摘して、
これらの経典の書写は、もっぱら功徳を求めるためのものであり、祖先信仰その他と結びついた呪術的な要素を含んだものであったにせよ、五性各別を説くはずの法相宗徒は、菩薩戒の実践という点もあってか、積極的に民衆のうちに入っていったのである。(石井公成〔一九九六〕、四一六頁)
と述べているように、法相宗が民衆――所謂「民衆」が何を指すのかについても、これから研究、議論をしていかなければならないだろうが――と主体的に接触し宗教活動を行っていたという事実について、これまでのような浅薄な理解にとどまるのではなく、様々な面からの考察が必要になってくるはずである。
中国における法相宗の活動に関する史料はきわめて少ないが、それでも数例見出すことができる。拙論では、日本において法相宗第二祖とされる淄州大師慧沼(六四八〜七一四)とその弟子が関係したと思われる架橋事業についての史料を紹介し、若干の考察を行うことで、法相宗や南都仏教の多様なあり方について考えるための材料を提供したいと思う。
橋、あるいは橋を架ける、橋を渡るという行為が、洋の東西を問わず古代から現代に至るまで人間の死生観に深く関わってきたことは、これまで何度も指摘されてきたことである*2。空間を分断し、時には人命を奪うこともあるほど容易には渡ることができない川は、三途の川を持ち出すまでもなく境界と意識され、そこから橋は境界=川で隔てられたあの世とこの世を結ぶ場、あるいは空間が分断されていることを意識させられる場として機能していた。古い例では古代ペルシアのゾロアスター教で死者が渡るとされていたチンワド橋(チンワント橋)、中国の伝統的な死後の世界である泰山・鄷都にかかる橋、イスラム教のエス・シラット橋など、枚挙に暇がない。現代でも、中国苗族の敬橋節をはじめとする橋をめぐる様々な儀礼、台湾の王爺醮における七星橋を使った厄落とし、沖縄のイザイホー行事における七つ橋、立山の布橋灌頂会や奥三河の花祭り、韓国全羅南道のシッキムクッなどにおける布橋の儀礼など、人間の誕生や葬式における儀礼において橋が大きな役割を果たしている例は数多く存在する。
したがって、必然的に架橋や橋の修復といった行為には宗教者が大きく関わることになる。ラテン語で聖職者を表すpontifexという語が元々、橋(pons)を作る(facere)人、という造語であるということは、その典型的な例としてあげることができよう。そして言うまでもなく仏僧もまた、架橋の担い手として古来、活躍してきた。仏教徒にとっての橋、あるいは橋を架けるという行為は、単なる社会事業や異界との交通という面に加え、「度彼岸」という菩薩行としても意識されていたのである。
古代よりきわめて高い架橋の技術を有していた*3中国においては、橋と仏教との関係が隋から則天武后の時代においてピークを迎えるようである。架橋に関する碑文を網羅的に調査した川勝守〔一九八九〕*4によれば、隋代以降の特徴として「建設者には村民や県の老人などの一般庶民があたっている」ことが見受けられ、しかもその庶民の集団は架橋を「捨身の行にも比す利益衆生の大乗菩薩道と観念」している「一地域的仏教集団」であることがわかるものが多いと言う。碑文によっては「石橋を造ることが一乗(法華一乗か)の化他行とされている」ものもあるという。
日本における代表的な例は、道登による宇治橋の架橋(と、叡尊らによる修復工事)であろう。日本最古の石碑とされる所謂「宇治橋断碑」*5は、中国のそれと比較すると規模も文章も短く、素朴な(言い換えれば稚拙な)ものであるが、
浼浼横流 其疾如箭 修修征人 停騎成市
欲赴重深 人馬忘命 従古至今 莫知杭葦
世有釈子 名曰道登 出自山尻 慧満之家
大化二年 丙午之年 搆立此橋 済度人畜
即因微善 爰発大願 結因此橋 成果彼岸
法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其苦縁
とあるように、ここに見える「人畜を済度せん」「果を彼岸に成さん」という表現に中国の碑文との共通性を見出すことができる。
また、ここで「市を成す」という表現が出てくるが、相田洋〔一九九七〕によれば、異人(異民族)と出会い、死刑(棄市)が執行される場であった市もまた、橋と同様「異界の窓」として意識される場所であった。
橋は世界中大抵どこでも、境界のシンボルとされており、市とは頗る相性が良い。そのため、橋の袂に市が立つ、もしくは市の側に橋が懸けられることが多い。中国でも、蜀の李冰の七橋の一つに「市橋」なる橋がある他、地誌類には、「市門橋」「通市橋」・「市心橋」・「米市橋」「菜市橋」・「土橋市」「板橋市」「杜橋市」など、夥しい数の市の名の付く橋が見えている。(同・八二頁)
相田氏は市の境界性について様々な事例を紹介しているが、ここで注目したいのは、天候の好転や雨乞いなどの儀礼との関連で市が語られていることである。『漢書』八四・翟方進伝には、市で行われた処刑に関する記述で、
已捕斬断信二子、穀郷侯章・徳広侯鮪、義母練・兄宣、親属二十四人皆磔、暴于長安都市四通之衢。当其斬時観者重畳、天気和清、可謂当矣。命遣大将軍、共行皇天之罰、討海内之讎、功效著焉、予甚嘉之。
とあり、処刑の際に多数の観客がとりまき天気が清朗であったことが、その正当性を証拠だとする記述がある。また『礼記』の壇弓下第四においては、
歲旱。穆公召縣子而問然。曰「天久不雨、吾欲暴尪而奚若」。曰「天則不雨、而暴人之疾子虐、毋乃不可與」。「然則吾欲暴巫而奚若」。曰「天則不雨、而望之愚婦人於以求之、毋乃已疏乎」。「徙市則奚若」。曰「天子崩、巷市七日、諸侯薨、巷市三日。為之徙市、不亦可乎」。
と言うように、雨乞いのために市を移す「徙市」についての記述が見える。雨量が川を渡ったり橋を架けたりする際に成否を分ける大きな要因になることは容易に想像できるが、後に詳しく見ることになる慧沼とその弟子による架橋を記録した碑文においても、やはり架橋の際の天候が大きなテーマとなっている。したがって、このような中国における用例を見れば、「宇治橋断碑」の「市を成す」という一言も、単に足止めを余儀なくされた旅人が集まっている様子を表現しているだけとは考えるべきではなく、自然界に働きかけるための何らかの儀礼の場としての側面があったと考えるべきではなかろうか。
さて、ここからは本稿のテーマである慧沼とその弟子による架橋事業について話を移そうと思うが、その前に彼らの伝記史料について見ておかなければならないことがある。
まず、慧沼の伝記・行状については、所謂「三祖」の中の一人として富貴原章信〔一九四三〕、同〔一九四四〕などの研究があったが、それに加えて近年、根無一力〔一九八七〕とそれを継承した戸崎哲彦〔一九九七〕による李邕撰「唐故白馬寺主翻訳恵沼神塔碑」(以下「神塔碑」)の精緻な研究によって、その生涯が明らかになってきている。ここで重ねてとりあげることはしないが、この史料において注目されるのは、
の二点である。まず「山東一遍照」についてであるが、後に架橋についての史料を見る中で説明したいと思うので、ここでは述べない。
次に弟子の件であるが、この「神塔碑」に慧沼の弟子としてあがっているのは恵沖微、恵勝説、耶含胐、恵日、福琳、無著、法山、恵融、龍興寺上座恵祥、彼微寺恵光、大雲寺恵灯、法通、法蔵、恵明、正等寺恵嵩、法済寺恵仙*6らで、日本においては法相宗の第三祖として尊ばれている濮揚智周*7や、『宋高僧伝』で慧沼の弟子となっている義忠(大正五〇・七二九下)の名は見られない。根無氏は、恵日を山東出身の慈愍三蔵恵日に、福琳・恵光を荷沢神会の同名の弟子にそれぞれ比定し、恵融、恵灯、恵明についても解釈を示している。
根無氏の解釈を検証するには今後さらなる史料を調査しなければならないだろうが、一つだけ付け加えるならば、菩提流志の下で『大宝積経』の訳経に携わっていた無着という僧を、右の同名の僧と同一視することができるのではないかと思う。すなわち『大宝積経』序文に、
復有沙門大徳深亮・勝荘・塵外・無著・慧迪等証義者、国之大師、仏之右臂探諸了義演而証之。(大正十一・一下)
とあるのだが、後に指摘するように慧沼はこのグループに加わっていた可能性があり、またここに挙げられている塵外は慧沼と同じ寺に住していたと思われるのである。
これまで指摘されてこなかった史料として、「大唐斉州神宝寺碣銘*8」(以下「神宝寺碣銘」)をあげたい。ここには「先代大徳」および「現在諸大徳」として僧の名前が列挙されているが、その一人として「大都維那僧恵沼」の名前が見える。
寺内先代大徳、僧明幹、提智慧燈、照無明闇。僧彦休、護惜浮囊、微塵不犯。僧元質、積行勤苦、軌範僧倫。僧神解、高樹論幢、摧諸憍子。僧宏哲、持経得験、舍利猶存。僧恵沖、殷念西方、期心安養、所造功徳、觸類滋多。僧景淳、釈戸綱宗、元門枢紐。僧貞固、励心宏護、結念修営。僧灋將、齠齔出家、童顔落彩、三斉負笈、猛探麟角之先。九洛求筌、迥出牛毛之外、並俱沐聖恩、僉成道器、忽州風急、鹿苑霜飛、早謝伝灯、空懸錫影。
現在諸大徳、寺主僧慧、珍戒珠澄月、道骨含星、堪忍作衣、灋空成座、六時礼念、脇不至床、壹食標心、口不再飲、是慈悲父、是良福田、広済蒼生、普心供養。大都維那僧恵沼、標格千仞、崖岸万里、吐妙灋於脣吻、納山岳於心胷、縦橫道門、洞達無礙。上座僧塵外、戒香紛馥、有賓頭之盧之軌儀。都維那僧敬祥慧、剣如霜、継舍利弗之談説。僧敬崇、奈苑良材、橫愛河而濟羣溺。僧智山、祇園杞梓、敞灋宇而庇蒼生(後略)。
「神塔碑」に「綱維に恩補せらるるは六員」「大徳は恩深く、三綱に詔選さる」などとあり、また斉州は淄州の西隣にあって「山東一遍照」と号する慧沼の活動範囲内にあったと考えられることから、この記事は慧沼を指していると考えてよかろう。
慧沼のほかにも、ここに見える僧恵沖、都維那僧敬祥、僧敬崇らはそれぞれ「神塔碑」に出てくる恵沖微、恵祥、恵嵩との関連が予想されるし*9、上座僧塵外は、慧沼とともに菩提流志の『大宝積経』の訳場に参加した人物と推定される。先に見た『大宝積経』序文にもその名前はあったが、『宋高僧伝』の慧沼伝にもまた、
菩提流志於崇福寺訳大宝積経、沼預其選充証義、新羅勝荘法師執筆、沙門大願・塵外皆一時英秀當代象龍。(大正五五・七二八下)
とあり、先に指摘した弟子無著とともに、慧沼が塵外と同じ訳経グループにいた可能性が考えられる*10。
以上を勘案すると、慧沼およびその門下の活動範囲は、山東から河南、洛陽にかけての一帯であったことがわかるだろう。この地域が交通の要衝であったこと、就中新羅人を始めとする外国人の通過点であり滞在地であったことは言うまでもないが、このような地理的条件がどのような影響を慧沼らに与えていたのか(いなかったのか)について考えることは、慧沼と円測らとの関係を思うと大変興味深いことではないかと思われる。
さて、ここからは、慧沼とその弟子が行ったと思われる架橋の史料について見て行きたいと思う。まず最初に、根無氏が見出した新資料「釈慧沼等造石橋記」(『匋斎臧石記』所収)を引用しよう。元の『石刻史料新編』一一で「上缺」「下缺」となっているところは「…」としてその前後で改行し、一部が欠けている字については「△」として、ルビを適宜補った。また、できるだけ新字体に改め、句読点を追加している。
…識□…
△済以日以月…
鮮有敗績…
(A)和上諱玄字慧沼…
城貴族曽祖従…
□軸皆注水不竭粶冰…
△(朝?)寵遇親承…
(B)遠・澄・什各一時…
非善不作屡覩崇建斯亦其宜。以天宝十載三月三日□□奉 邑宰李□許以大設…
楽之眉寿者老小大之…
△湻化克昌、宰輔忠粛 聖謨潜運、日用不知、楽遂生成、喜登仁寿、其□煙雲、醴露草木、龍□□□亥圖牣超三□…
天子之徳也。恵施普礼相与吏黠者摘人姦者抶之目無全牛理玄(?)□□吾△(寘?)□之賢良也。(C)法相序、信△(相)△(孝)□□□…
也。穆相守、九族和平、而父子夫婦之則。又吾徒百姓之肥夫也。夫如是側□ 皇□□醋薫風下上、寍一魚鳥、咸若不△(然?)□繁…
議石橋之事乎。向使陟(?)巚、造雲伐林通谷鑿山開地、以兾貞珉不□□明白、今神心□附石踴近坑神人相扶功力□□省、豈非以一誠而致耶。(D)其載自正及夏天則不雨、架木施石故、就厥功朝畢、而夕雨溢渓纔成、而晷刻雷作、若石不△合木泛星査垂□、此又奇跡也。於是(E)劉守良・劉嘉祥・劉雷高、謹等節一社之費、増萬銭之余、以購能文、〓刊貞琰、僕雖不敏、△(忝)甞詞翰、紀善摽□□□相託。庶陜(?)谷有徒(?)而金石無缺、敬為頌曰 武則有周、天命既休、鷹維尚父、又封営丘、永言△秡、誰嗣弓裘、昔□□之、金雀山下 我桑梓、沃我原野、渓谷闞裂、周迴閭社、乃命石人、工求匠者其二匠人伊何、鑿之登之、石□構矣、不騫不崩、△□□□、誰不嗟称其三猗衆君子、克成于□、懿厥(?)婦人、言㝎其始、神心巍答、人亦勤□、□構纔成、木便漂矣其四言之不出、恐貽恥□□□□□□不欽崇、敬宣銘述、永賛無窮其五元建橋大施主僧(F)元睞 施橋□橦□石主(G)劉琛 天宝十三載八月十五日建
建二石橋立碑造浮図主(H)劉霊光
まず、設立に関わった人々について見てみよう。冒頭の慧沼に関する記述は断片的でほとんど残されていないが、「諱は玄」という個所は他の史料と一致するので、同名異人ということではなかろう。また「天宝十三載(七五四年)八月十五日」の日付を持ち、施主・造主の名前として僧元睞、劉琛、劉霊光の名前が刻まれているほか(F~H)、欠字が多く内容は非常に読みにくいが、劉守良、劉嘉祥、劉雷高といった人々が金銭的に大きな働きをしたことが読み取れる(E)。ここで多く登場する劉姓が、慧沼の俗姓と同じであることは注目してよいだろう。すなわち、僧の出身地での活動に、その実家が大きく関与している可能性を想像しうるからである。氣賀澤保規氏が一九九六年に山東青州の唐代龍興寺址(慧沼の弟子である恵祥が住していた寺)とされる場所から出土した六~七世紀のものとされる膨大な石仏について「これだけの仕事を支えるには、強大なスポンサーないし基盤があってのことであり、この一体を中心とする山東貴族の介在はどうしても想定しなければなりません」(氣賀澤保規〔二〇〇一〕)と述べているように、山東省にはこのような仏僧の活動を支援する社会的地盤――先に引いた川勝守氏の言う「一地域的仏教集団」に通ずる――があったと考えられる。慧沼が、慈恩大師基や普光に師事している若い時期に「山東一遍照」と号することができたのは――もちろん、慧沼本人の資質も大きな要因の一つであろうが――このようなバックアップがあったからではないかと想像するのは乱暴であろうか。
また(B)には「…遠・澄・什各一時…」という前後が欠けた一句が見られ、慧遠、仏図澄、鳩摩羅什への意識が読み取れる。先の引用では省略したが、同様に「神宝寺碣銘」でも、神宝寺を開いた明公の系統について述べる際に「雁門恵遠、罽賓羅什、明公継茲」と、やはり廬山慧遠・鳩摩羅什の名をあげている。これに関連して思い起こされるのが、慧沼の弟子や関係者に「慧」「恵」という一字がつく名前が多いことである。「神塔碑」には、恵沖微、恵勝説、恵日、恵融、恵祥、恵光、恵灯、恵明、恵嵩、恵仙という名が、「大唐斉州神宝寺碣銘」にも恵沖、慧珍が見えるが、想像を逞しくすれば、この「慧」「恵」を共有する集団が慧遠に対する信仰を持っていたという想像も可能であろうと思うが*11、今後の課題としたい。
次に(D)に注目すると、ここには架橋の年にまったく雨が降らず、ある朝に工事が終わるとその日の夕方に雨が降り始めて川が水で満たされて云々という「奇跡」が説かれている。これは(C)の部分が『礼記』礼運第九からの引用であることを踏まえると、礼を正しく行えば「天は膏露を降らし、地は醴泉を出だし、山は器車を出だし、河は馬図を出だし…」(『礼記』礼運第九)という「礼のシステム」(大室幹雄〔一九八一〕)が背景にあることは間違いなく、恐らく慧沼が『礼記』で言うところの「聖人」に相当するような表現となっているのであろう(断片的だが「天子之徳」などといった用語からもそれはうかがえよう)。これは、第二節で引いた『漢書』の、正当な行為をする際にそれに応えて天気が清朗であったことが記されていた記事や、『礼記』壇弓下第四の「徙市」の記事に近いが、『漢書』や『礼記』壇弓下第四が天との通信の場として市を利用していたのに対して、「釈慧沼等造石橋記」の場合は橋という異界への通路が出来上がる前の段階から「奇跡」が起こっていたことからもわかるように、橋の境界性が薄いように思われる。
先に見た川勝守氏の指摘にあるように、隋代から則天武后の時代にかけて「度彼岸」を意識した架橋の碑文が多く見られるのに対して、七五四年の奥付がある「釈慧沼等造石橋記」にそれがほとんど見られないのは、則天武后の死後(「武則有周、天命既休」はそれを表すか)、橋の持つ境界性が薄らいだためという可能性も否定できない*12。
慧沼の本拠地である淄州における架橋事業を想像させる史料として、やはり『匋斎臧石記』所収の「淄川郡東界劉□村石橋碑」があげたいと思う。この碑文もまた脱字、闕字が多く、建造年代をはじめとする内容のほとんどを把握することができないが、冒頭に列挙されている僧名が、この碑文の素性を知る手がかりとなろう。左に引用したのはその部分であるが、碑文全体はあまりに欠字が多く断片的であるため引用することはしない。
比丘僧慧□
□□僧慧□
比丘僧慧篠
比丘僧慧福
比丘僧崇行
天□供養
大□供養
国△翻経沙門慧如
比丘僧玄覧
比丘僧慧冲
比丘僧慧明
比丘僧慧月
この中、慧冲は先に見たように「神塔碑」「神宝寺碣銘」に見える恵沖(微)と同一人物ではないかと思われ、また慧明も「神塔碑」に慧沼の弟子として同名の人物がいる。慧月については、「不空羂索陀羅尼経序」に「西京宝徳寺僧」という肩書の同名の人物が見られるが、同一人物であるかどうかについてはわからない。このリストで注目されるのは、崇行と玄覧を除きほとんどが「慧」を含む名前であることである。これは先にも触れたように、「神塔碑」に列挙される慧沼の弟子の名前の特徴と一致する。また、碑文の末尾には「施主劉四朗」とあるのだが、劉氏は先に述べたように慧沼の俗姓であり、「釈慧沼等造石橋記」に多くの劉姓の人物が挙げられていたことが想起される。加えて、碑文のタイトルが「淄川郡東界劉□村」となっていることからもわかるようにこの石碑は劉□村の東端*13にあったわけだが、この村の名前も劉姓との関係を示すものかもしれない。以上のことから、慧沼につながりの深い人々、特に弟子たちが建設に関わった橋の碑文と見なして大過なかろうと思われる。
以上、甚だ断片的ではあったが、慧沼とその弟子による架橋の史料の紹介と分析を行った。ここからわかったことは、まず、慧沼の活動の裏に、劉姓を共有する在家の親族集団と、「慧」「恵」の一字を共有する出家僧の集団があったという点である。これらがどのように組織化され、またどこを本拠に活動していたかは判然とせず、むしろ流動的であったような印象も受けさえする。しかし、六九五年の日付がある「(□牛□)小石橋碑」を分析した上で川勝氏が「造橋が、大碑主―大橋主―大像主―左・右菩薩主―発心主―大施主―施主というヒエラルヒー的秩序、寄進集団の序列によって形成された」(川勝守〔一九八九〕・五二四頁)と興味深い指摘をしていることから考えれば、山東を主な勢力範囲として劉姓を持つ慧沼をリーダーとする在家・出家両方を合わせた「ヒエラルヒー的秩序」が形成されており、慧沼が若くして「山東一遍照」と号することが可能になったのもそのような背景があったからと考えるのは強ち間違いではあるまい。そして、法相宗に対する「学問仏教」「国家仏教」といった従来のイメージについてもまた、これらの史料によって再考しなければならないことが明白になったのではなかろうか。
次に架橋の背景にある思想、信仰についてであるが、橋の持つ境界性がほとんど見られず、『礼記』礼運に見られるような全宇宙的な「礼のシステム」が碑文の表現の主要なテーマであったのが興味深いところである。このような世界観は、碑文の作者のものであって、慧沼やその周辺の人々とはまったく関係がなかったということもできるかもしれない。特に慧沼の活躍した時代と碑文の建設された時代が隔たっていることもあり、注意が必要である。いずれせにせよ、この思想、信仰の面については慧沼らの宗教活動の動機に密接に関わってくるものであることから、『成唯識論了義灯』をはじめとする慧沼の思想的なテキスト、あるいは同時代の碑文・史料など、様々な角度から「釈慧沼等造石橋記」の評価をしなくてはならないだろう。
最後に日本への影響であるが、慧沼『十一面神呪心経義疏』の記述が奈良時代の彫刻に影響を与えたという説もあるとのことで(水野敬三郎〔二〇〇一〕・四七頁)、右のような架橋の背景にある思想・信仰なども日本に伝わっていないと断言することはできないだろう。もっとも、それを調査するための史料に乏しいため今後の研究も困難を極めるだろうが、「宇治橋断碑」については、隋代から則天武后の時代の特徴と共通する反面、「釈慧沼等造石橋記」のそれとは異なっていることから、年代を内容的に確定するための材料とすることができよう。
大正…大正新脩大蔵経