[morosiki top] [Moro files] [BOOKS, PAPERS and PRESENTATIONS]

以下のテキストは、『印度学仏教学研究』97(49-1)に掲載された論文の提出原稿をHTML化したものです。 返り点を省略したり、掲載時に校正を経たりしているので、実際に掲載されたものと異なる場合があると思いますが、ご了承ください。


新羅元暁の三時教判批判
――『大慧度経宗要』を中心に―― このエントリーを含むはてなブックマーク

師 茂樹

初期の朝鮮仏教を代表し、所謂「和諍」の思想を説いたことで有名な元暁(六一七~六八六)であるが、新訳以後の唯識仏教に関する著作が多いことでも知られている(1)。その元暁が羅什訳『大品般若』(以下『大品』)について六門にわたって概説(第六門は不説)した『大慧度経宗要』では、「第五判教」として般若経典を第二とする教判への批判が見られる。

***

まず、批判の対象として二つの教判が紹介される。

一つ目は、一切の教が頓教と漸教の二種に分けられるとした上で、その漸教を(1)四諦教・(2)無相教・(3)抑揚教・(4)一乗教・(5)常住教とする「有人」の説である。この説によれば「今、此の経(=『大品』)等、諸の般若の教は、第二時に在りて、無相教と名づく」(大正三三・七三a)という。この教判は、吉蔵『三論玄義』が「宋道場寺沙門慧観」(大正四五・五b)のものとして紹介する五時教判によく似ている。 二つ目は、「或いは説有り…」として引かれる『解深密経』無自性相品を下敷にした「三種法輪」(大正三三・七三a)である。この教判では「今、此の『大品』ならびに諸の般若は、皆是れ第二法輪の所摂なり」であると言うが、『解深密経』本文に第二時を般若経とする説はないから、間接的に玄奘門下の三転法輪説・三時教判を指しているものと思われる。

***

次に元暁は、『大品』と『法華経』『解深密経』『華厳経』との比較を通じて、前者が後者より劣るとする説を批判する。まず『法華経』については、

A 如此論釈畢定品言「須菩提聞法華経説、若於仏所作少功徳、乃至戯咲一称南無仏、漸漸必当作仏。又聞阿鞞跋致品中有退不退。如法華経中畢定、余経説有退有不退。是故今問為畢定為不畢定」乃至広説。以是験知、説是経時在法華後、即示第二時者不応道理也。(大正三三・七三b)

と述べ、『大智度論』釈必定品の説(大正二五・七一三b~c)を略引することで『大品』の一部が『法華経』以後にも説かれたことを示している。

次に『解深密経』との比較では、『大品』と『解深密経』とが三つの点で通ずることを示す。一つ目は、

B 又論云「復次有二種説法、一者諍処、二者不諍処。諍処如余経。今欲明無諍処故、説是摩訶般若波羅蜜経」。以此証知、今此経者同於第三顕了法輪、非諸諍論安足処故。而判此経等示第二法輪、是即此経為諍論処、不応謂論説是無諍。(大正三三・七三b~c)

と述べる通り、『大智度論』巻一の所説(大正二五・六二b)によって『大品』が「無諍処」であることを明かし、『解深密経』で「非諍論安足処所」とされる第三時教に含まれるのではないか、と主張している。二つ目には、

C 又此経言「欲求三乗菩提、応当学般若波羅蜜」。又言「波若波羅蜜中雖無法可得、而有三乗之教」乃至広説。如解深密経中「一切声聞・独覚・菩薩、皆共此一妙清浄道」。当知、此経同彼第三普為発趣一切乗者、以顕了相転正法輪。而第二法輪中言「唯為発趣修大乗者」、何得以第二。(大正三三・七三c)

とあるように、「此の経」すなわち『大品』に、三乗の悟りが般若波羅蜜を学ぶことによってのみ得られるということ(方便品、大正八・三七一b)、般若波羅蜜からは三乗教のみが得られるということ(三歎品、同・二七九c)が説かれていることを指摘し、それらが『解深密経』巻二の「一切の声聞・独覚・菩薩は、皆共に此の一妙清浄道なり」(大正一六・六九五a)という説や、三時教判において第三時が一切乗のために説かれたとする説と共通するのではないか、と主張している。三つ目は、

D 又此経如化品言「若法有生滅者如化。若法無生無滅、所謂無誑相涅槃、是法非変化。須菩提言〈如仏所説諸法性空、非声聞作乃至非諸仏作、云何言涅槃一法非如化〉。仏言〈如是如是、一切法性常空。若新発意菩薩聞一切法性空乃至涅槃亦皆如化、心即驚怖。為是新発意菩薩故、分別生滅者如化不生滅者不如化〉。須菩提言〈世尊、云何令新発意菩薩知是性空〉。仏告須菩提〈諸法本有今無耶〉」。以是文証当知、此経説涅槃法亦無自性。而第二法輪中言「一切諸法無生無滅本来寂静自性涅槃」、不言「涅槃無自性性」。第三了義法輪中言「一切諸法無生無滅」乃至「涅槃無自性性」。以是故知、今此経宗超過第二、同第三也。(大正三三・七三c)

とあるように、『大品』如化品の説(大正八・四一六a)を証拠として、『大品』もまた「涅槃の無自性性」を説いていると主張する。『解深密経』の三時教判では、第三時において「一切法皆無自性無生無滅本来寂静自性涅槃無自性性」が説かれたとされ、第二時の所説である「一切法皆無自性無生無滅本来寂静自性涅槃」とは「無自性性」の点で増減があるのだが、元暁はこの第三時の「無自性性」が『大品』において涅槃を「化の如し」と述べていることと共通し、したがって『大品』が「第二時を超過している」のだと主張している。

最後に『華厳経』との比較では、

E 又華厳経云「生死及涅槃、是二悉虚妄。愚智亦如是、二倶無真実」。今此経云「色受想等如幻如夢、乃至涅槃如幻如夢耶。若当有法勝於涅槃者、我説亦復如幻如夢」。当知、此経同彼華厳無上無容究竟了義。但其教門各各異一耳。(大正三三・七三c~七四a)

とあるように、『六十華厳』夜摩天宮品で説かれる偈文(大正九・四六四c)を引き、『大品』幻聴品の説(大正八・二七六a~b)と比較することで、前者で説かれる涅槃の虚妄と、後者の「涅槃は幻の如く夢の如し」という説が同内容を説いていると述べる。(2)

***

以上を三時教判に対する批判としてみれば、B~Dは明らかに『解深密経』に対する批判であるし、またAとEについても、円測『解深密経疏』巻五に「大唐三蔵」の説として、

第三法輪、在両処説。一者浄土、二者穢土。(中略)通説法華及華厳等為第三者、即鷲峰山及七処八会、如経応知。(卍続三四・八二五a~b)

という三転法輪説が述べられ、また基『説無垢称経疏』巻一本に、

三双遮有・空執、 並説有・空宗、即花厳・深密・涅槃・法花・楞伽・厚厳・勝鬘等是。(大正三八・九九九a)

とあるように、『法華経』『華厳経』が『解深密経』に並ぶ第三法輪・第三時了義教とされていることから、やはり三時教判における優劣を批判するものと見なすことができる。Eが三時教判を意識したものだということは、『華厳経』を「無上無容究竟了義」という『解深密経』の用語で表現していることからもわかるだろう。もっとも、右にあげた玄奘の教判の場合、Aのように時間の前後によって判断しているわけでもなく、B~Eのように第二法輪と第三法輪とを内容的に区別しているわけではないので、元暁の批判対象とは言い難い。したがって元暁の批判対象は、般若経典を第二時空教として貶めた基の説に対するものなのではないかと思われる。

一方、慧観に対する批判として見てみると、B~Dは明らかにそうではないし、Aも漸教の最高の教えである『涅槃経』との関係を論じない限り批判としては不充分であろう。Eは『華厳経』がそもそも五時教判の中に位置付けられていないので、批判として成り立っていない。したがって元暁の批判対象は、実質的に基の教判だけだと見てよいと思う。慧観の五教判について言及されている理由は、当時大きな勢力を誇っていた玄奘一派に対する気遣いだったのかもしれない。

  1. 鎌田茂雄「『十門和諍論』の思想史的意義」(『仏教学』一一)
  2. 法蔵『探玄記』所引の元暁「華厳経疏」(大正三五・一一一a)では、般若経(三乗通教)と華厳経(一乗満教)とを明確に区別しており、『大慧度経宗要』の説と食い違う。


mailto: s-moroNO@SPAMhanazono.ac.jp
$Id: 20001220.html,v 1.8 2007/05/19 05:51:19 moromoro Exp $