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『印度学仏教学研究』47-1(93)、1998年12月。ただし印刷されたものと異なる場合があります。
※ 本文中の傍点はすべて強調に改めた。
慈恩基(六三二〜六八二)を祖とする所謂法相宗の一乗説は、伝統的に「三乗真実・一乗方便」とされ、天台宗をはじめとする一乗家とは正反対の思想をもつと見なされてきた。しかし基『大乗法苑義林章』の「諸乗義林」には、『勝鬘経』の一乗に対して、次のように「真実」とする説が見られる。
(1) 又法華一乗唯依摂入、体用狭故為方便説。勝鬘一乗、出生・摂入、二皆周備、故是真実。法華一乗唯談有性為依、故是方便。勝鬘一乗亦談無性為依、故是真実。法華唯談不定性、故是方便。勝鬘亦談決定種姓、故是真実。一会之中可宜聞故。(大正四五・二六六b。番号および傍点は筆者、以下同)
この前後には、法華一乗を随他意語・隠密語とするのに対して勝鬘一乗を随自意語・師子吼説とするなど、方便・真実という用語は見えなくても勝鬘一乗を真実説であるとみなしているような箇所がみられ、したがって従来のような説明では必ずしも理解できない面があるといえよう。以下、「諸乗義林」を中心に検討し、法相宗の一乗説を再考してみたいと思う。
まず、引用(1)では、勝鬘一乗が真実である理由として、出生・摂入のふたつを倶備しているから、ということをあげるが、これは善珠によれば『勝鬘経』一乗章に、
(2) 摩訶衍者。出生一切声聞縁覚世間出世間善法。世尊。如阿耨大池出八大河。如是摩訶衍。出生一切声聞縁覚世間出世間善法。世尊。又如一切種子皆依於地而得生長。如是一切声聞縁覚世間出世間善法。依於大乗而得増長。(大正一二・二一九b)
とあり、また
(3) 声聞縁覚乗皆入大乗。大乗者即是仏乗。是故二乗即是一乗。(同・二二〇c)
とあることを指すという(『法苑義鏡』第二、大正七一・一七二c)。この出生・摂入について基説・門人義令記『勝鬘経述記』には、
(4) 有二義。一云、若定性智定皆従大乗中出、名出生名(ママ)大乗也。二云、若不定種性及大乗種姓畢竟還帰大乗、名摂入大乗。二云、於不定性中有二義。若始従小教趣小果時、名出生故、名大乗。若已迴心帰大乗時、名曰摂入故、名大乗也。(卍続一・三〇・三〇四左上)
とあり、摂入の対象は廻小向大をした不定種性と菩薩定性についてのみであり、それ以外は出生大乗ということになるようである。しかし、引用(2) と、それに先行する所謂四重担の喩(大正一二・二一八a〜b)をあわせて考えれば、摂受正法=大乗が四乗五性のすべてを出生すると解するのが穏当ではないかと思う。しかも、勝呂信静氏の指摘(1)にあるとおり、この四重担は「四乗真実」の根拠にもなっていると考えられるのであるが、摂入大乗に限れば四乗が真実、出生大乗も含めた場合は一乗が真実、ということであるから両者は矛盾しない(2)。基は勝鬘一乗を真実として認めていたのである(3)。
以上のことは、引用(1)に見える、法華一乗が有性・不定性のみを対象としていることから方便であるのに対して、勝鬘一乗が無性・決定種性を対象としているからこそ真実である、ということと通底すると考えられる。
したがって、基が『勝鬘経』を「一乗方便」と解していたという従来の説(4)も、訂正されなければなるまい。従来の説では、基が『勝鬘経』の「若如来随彼所欲而方便説。即是大乗無有二乗」(大正一二・二二一a)をもとに一乗方便説を主張したとするが、次にあげる通り、基が方便としたのは『勝鬘経』の一乗ではない。
(5) 依勝鬘経「若如来随彼意欲、而方便説唯有一乗無有二乗」。此意即顕摂二乗入大説一乗者、随他意語。(大正四五・二六六a)
(6) 「若如来随彼意欲、而方便説即是大乗無有二乗」。故会二乗入於一者、是方便説(同・二六七b)
(5)の傍点部を見ればわかるように、『勝鬘経』が「方便」としたのは、摂入一乗についてであって、出生一乗までもふくめているわけはないのである。善珠が(5)を注釈して「引勝鬘文、証法華一乗是方便門」(大正七一・一七二b)としていることからも、『勝鬘経』で「方便」とされている説が、『法華経』等に説かれる摂入一乗についてであることは明白であり、出生・摂入の両方を備えた勝鬘一乗が真実であることとは矛盾しないのである。
ところで、「諸乗義林」においては、一乗=大乗の体を教・理・行・果によって定義しているのであるが、その教一乗について見てみると、
(7) 教一乗者、謂詮順大乗三蔵教法。故摂論言「阿毘達磨大乗経」等。此正本教大乗。又法花云「我此九部入大乗為本」。又勝鬘経言「正法住・正法滅・波羅堤木叉・毘尼・出家・受具足、為大乗故説此六処」。此方便教大乗。故知詮順大乗所有言教。若方便、若根本、皆教大乗。(大正四五・二六四c。傍線は筆者、以下同)
となっており、小乗教(=方便)と大乗教(=根本)とが共に大乗であるとし、理・行・果についても同様の定義をしている。この根本大乗と方便大乗とがどのような意味を持っているかは、『法華玄賛』巻四本の次の箇所に端的に解説されている。
(8) 由頓悟者、正学根本教理行果。兼為伏化二乗者故、亦学方便教理行果。其漸悟者初学方便、後迴心已方学根本。所学法同、初後全別。(大正三四・七一四a)
ここでは、根本・方便というふたつの「大乗」が、頓悟(菩薩定性)と漸悟(廻心向大をする不定性)のための説であることがわかる。また、(7)に引かれている『勝鬘経』(大正一二・二一九b)について、『勝鬘経述記』の該当する箇所を見てみると、
(9) 若此六法趣声聞果、即是小乗家近方便、与大為方便、方便大乗也。(卍続一・三〇・三〇五右上)
とあり、やはり廻小向大を前提とした「方便」、すなわち不定性に対するものであることがわかる。したがってここで定義されている大乗の体とは、先の摂入一乗に相当するものでしかない。
ここから、基が単に「一乗」といった場合は、法華一乗に代表される摂入大乗的な一乗を指し、出生大乗は含まないという暗黙の用語法があったように思われる。たしかに、一般常識的な概念としての「一乗」に出生大乗的な要素は含まれないし、基としてもそれにおおむね従っていたのであろうが、この用語の曖昧さが「一乗方便」と言うときの「一乗」の概念を曖昧にさせ、出生大乗を含めた広い意味での一乗を「真実」と認める説を軽視する結果となったのではなかろうか。
〈キーワード〉一乗方便説、大乗法苑義林章諸乗義林、勝鬘経
(東洋大学大学院)