『日本史の脱領域』
『日本史の脱領域』カバー写真 『日本史の脱領域―多様性へのアプローチ―』

・2003年2月 森話社刊、274ページ
・定価2400円(会員2000円)

○目次
序論「『日本史』という安堵と陥穽」見城悌治
I 歴史学的アプローチの最前線
第1章「歴史学とテクスト分析」稲城正己
 コラム1「歴史の物語り論」三浦具嗣
第2章「考古学研究におけるスキーマ理論の応用」池田敏宏
第3章「法会と桜」工藤健一
第4章「史実と伝承の間」内藤亮
第5章「データベースがもたらすもの」師茂樹
 コラム2「漫画と古典」森下園
II 開かれる過去/解体する現在
第1章「生活文化の相対化」
 1)「割り箸から探る日本文化」中澤克昭
 2)「環境問題と日本文化」北條勝貴
  コラム3「ジェンダーとセクシュアリティ」工藤美和子
第2章「宗教文化の相対化」
 1)「『日本神話』というパースペクティブ」斎藤英喜
 2)「戦死者の記憶と表象をめぐる試論」佐藤壮広
 3)「仏教文化の超域」中尾瑞樹
第3章「政治文化の相対化」
 1)「戦争と責任をめぐる選択」及川英二郎
 2)「『日本』の身体化」兒島峰
  コラム4「日本人起源論の背景」池田
第4章「日本史の相対化」
 1)「日本の西洋史研究と西洋の日本史研究」森下
 2)「歴史という言説」三浦
  コラム5「『日本人=単一民族論』という装置」池田

○刊行趣旨
◇歴史修正主義批判
 〈あたらしい歴史教科書をつくる会〉による歴史・公民教科書が正式に認可され、来年度の採択に先行して書店店頭に並んでいるのはご承知のとおりです。その叙述が、政治的イデオロギー以前の杜撰かつ粗悪な内容であることについては、すでに多くの歴史学者によって指摘されてきました。にもかかわらず、同書を歓呼して迎える風潮の治まらないことは、日本社会自体の抱える病理の一面を示しています。〈つくる会〉の活動を含む歴史修正主義的な傾向は、ドイツのホロコースト否定論をはじめ、世界的にも大きな議論を引き起こしています。それらが根強く浸透してゆく原因の一端は、戦後社会における旧体制的秩序の崩壊がもたらした、様々の社会的混乱にあるようです。身近なところでは倫理感の希薄化や犯罪の低年齢化・凶悪化、国際的には民族紛争から環境問題まで、確かに現代社会はよるべを失い動揺し続けているようです。しかしこの混乱は、人間の社会自体が新たな方向へ脱皮/再生しようとするうえで、不可避の試練=通過儀礼でもあるのです。歴史修正主義の大部分は、その不安定さに耐えることができない臆病な人々が、一時的なよりどころを求めて〈創られた伝統〉にすがりつく現象にすぎません。それは、今後の国際社会に広く活躍してゆくべき自立した個人の成長を妨げ、変化に適応できない脆弱かつ排他的な人格を生みだす弊害となるでしょう。学問研究とともに教育にも携わる私たちは、〈つくる会〉教科書による中学教育を受けて進学してくる子供たちを、どのように受け容れてゆけばよいのでしょうか。
◇歴史・文化の多様性へむけて
 言語論的転回をはじめとするポストモダン的潮流のなかで、国民国家のイデオロギーに支えられてきた伝統的歴史は崩壊し、史料と事実のア・プリオリな結合を前提する実証史学は大きく動揺しています。歴史と物語の密接な関係が指摘され、国や民族ばかりか、集団や個人によって異なる歴史の豊かさ、多様性が認識されるようにもなりました。それ自体は歓迎すべき傾向ではありますが、従軍慰安婦問題をめぐる議論が示唆するように、多様性のなかにいかなる価値基準を見出してゆくかが今後の課題ともなっています。〈つくる会〉の教科書も冒頭で歴史の物語論に言及し、戦後の歴史教育を〈自虐史観〉として斥け、「国民の誇りを養う」自分たちの歴史構築活動を正当化しています。しかしそれは、自らのよりどころとなる価値秩序を客観化できていない点で、本当の意味での相対化、多様性の認識であるとはいえません。歴史修正主義に限らず、20世紀パラダイムの負の遺産として残された種々の世界的問題、国内諸問題の多くは、自己や自己の属する共同体の価値観を絶対化する態度と、それによる他者認識の浅薄さに由来するところが多いように思われます。新しい社会に適合した価値観、倫理・道徳を再構築してゆくためには、私たちを規定する現代的価値基準の創出過程を歴史的に解明し、〈日本的伝統〉や〈固有文化〉と呼ばれる事象を客観化してゆくことがどうしても必要であると思われます。
◇新たな価値基準への前哨
 以上の問題意識に基づき、私たち方法論懇話会では、「真の相対化と多様性の認識」をテーマとした日本史の教科書を世に問うことにいたしました。これまでの方法論懇話会の議論を踏まえ、最新の人文・社会科学方法論を紹介・駆使し、過去を学ぶことで現代へのより深い洞察を養う歴史学的アプローチを提案します。具体的には、高校までの固定的歴史教育が植えつけてきた視野・知識、一般に広く浸透する実証主義的歴史認識を解体するため、テクスト論や図像学、メタヒストリー的視点を用いた新しい史料の読み方を示します。また、生活文化・宗教文化・政治文化の諸側面にわたって私たちを束縛する20世紀パラダイムを、戦後歴史学の脱構築的作業を通じて相対化し、より豊かで多様性に満ちた歴史像を構築してゆきます。
◇学生・一般の興味を惹きつけるために
 近年の学生には、抽象的な思考能力の低下が顕著に認められ、具体的事例を多く掲げなければ議論に付いてくることができないという傾向があるようです。そうした彼らの理解を助けるため、ビジュアル面での充実や平易な叙述を心がけること、彼らの関心を引きそうな日常的事柄やサブ・カルチャーに通底する具体例を用いること、用語解説や文献案内、適当なコラムを設けるなどの工夫はもちろん必要でしょう。しかし、現状への安易な妥協は教育の本義にもとり、文化の質的低下を招くことにも繋がります。本書では、他の類似書より一段レベルの高い、最新の知識の供給を目指し、問題意識をもって思考することの喜びを伝えることができればと思います。